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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【ヨーロッパ再編―英仏百年戦争の終結とコンスタンティノープル陥落―2】

かくして、フランス王国がイングランド勢を大陸から駆逐する直前の一四五二年十月、ハンガリー人のウルバヌスと名乗る男が、オスマン帝国のアドリアノープルの宮廷を訪れた。この人物は、「コンスタンティノープルの大城壁をも破壊する巨大大砲の設計書」を若きスルタンに見せた。イスタンブールの軍事博物館に現在も展示される「大砲」は、重量15トン。砲身に用いる合金青銅と錫の割合が精密であるという特徴を持つ。当時の軍事常識を変える「大型大砲」であった。男は、コンスタンティノープルは相手にしてくれなかったと漏らした。件のハンガリー人は、英仏戦争後の地中海を読んでいたのだろう。あるいは、なべて商人というものは、世界の君主達よりも早いということなのだろうか。


 曾祖父バヤズィト一世は、八年間コンスタンティノープルを囲んだが、落とせなかった。大城壁が邪魔であった。五世紀末に建造された、古代ローマの技術を結集した防壁。それは時代と共に強化され、かの都市は三重の直線的防壁によって護られていた。

コンスタンティノープルの面するボスフォラス海峡には、トルコ側にアナドル・ヒサルという要塞がある。しかし、それでは足りなかった。メフメト二世は、海峡のヨーロッパ側にも要塞を築く事を決意した。要塞は、三つの巨大な塔、幅7mの幕壁で繋がるものとする。メフメトは建設を三人の大臣に委ねた。それぞれが一塔。競争せよ。「要塞ルメリ・ヒサル」は僅か五ヶ月で完成した。これによって、オスマン帝国は、コンスタンティノープルとイタリア半島を往来する船舶の統制に成功したのである。

―これで、戦略的には、コンスタンティノープルを滅ぼした―

ある日、アントニオ・リッツォ船長の率いる一隻のヴェネツィア船が、「関税を払え」とのオスマン軍の警告を無視して海峡を渡った。船は要塞に置かれた大砲の砲撃を受けて沈み、リッツォ船長は杭に張り付けられて死んだ。あとは。“本当に”滅ぼすだけだった。


古代の城壁め。あの城壁さえなければ、ヨーロッパはとうの昔にイスラム化されていたことだろう。だが、現実として。西ローマ帝国は四七六年に滅びたが、ビザンツ帝国は未だ地中海の要所を占める。曾祖父はおろか、六七三年も七一七・七一八年も、イスラムはあの壁を崩せなかった。だからこそ、メフメト二世は、あの壁に挑む決意をしていた。

当時、ビザンツ帝国は帝国全土で五千の兵しか持たなかったといわれる。日本式の軍事制度で言えば「帝国全土で20万石」という計算になる。日本の地方大名の大内家ですら約76万石なのだから、「大内家の26.3%の生産力しか持たない、最早帝国と呼んで良いかも危うい“一都市国家”」に転落していたと言える。コンスタンティノープルを落とし、ギリシア地方を完全掌握しようとするメフメトの野心は、この流れの中にあった。


一四五二年秋、枢機卿イシドロス(ローマ教皇ニコラウス五世の特使、元キエフ府主教)と大司教キオスのレオナルドが、五十人の弓兵部隊を率いてコンスタンティノープルに駆け付けた。クレタ島のギリシア人部隊は、一部が帝都に留まり、六隻が脱走した。

一四五三年一月、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが二隻の船団と兵七百を率い、オスマン海軍の封鎖を突破して、コンスタンティノープルの防衛に加わった。ビザンツ皇帝コンスタンティノス十一世は、これに勇気づけられた。

『皇帝は、希望を失わないよう、神に揺らぎない信頼を保つよう、人々を励まし、指示を与えた』

(ヴェネツィア人医師ニッコロ・バルバロ日報、「ビザンツ驚くべき中世帝国」四一九頁)

皇帝は、このジェノヴァ人傭兵隊長に、ロマノス門付近の防衛を任せた。

春、ビザンツ帝国とオスマン帝国の最後の戦いが始まった。援軍合わせて九千(レオナルド見立て)のビザンツ帝国に対し、オスマン帝国は六万の正規軍と十四万の雑兵・百隻の戦艦を率いたといわれる。ニッコロ・バルバロによると、コンスタンティノープルでは、人口五~六万と推定される全員に対し、戦闘配置の警報が鳴り響き、女子供までがオスマン軍に落す石を運んだという。周囲19㎞の城壁の周りには、石が積まれた。


だが、五月初頭。パンとワイン、その他生活必需品が不足し、高騰をはじめた。コンスタンティノス十一世はナポリに穀物の搬送を手配した。長引く防衛戦に、ビザンツ市民は城壁修復作業の給与前払いを要求しはじめ、一部は葡萄・野菜園の仕事に向かい出した。大司教レオナルドは彼らを非難した。しかし、家族が困っているのです、というのが彼らの答えであった。有力市民が防衛資金の供出を拒み、財産を隠しているという噂が流れ、広がった。

そして、ある日、オスマン軍が新たな動きを始めた。メフメト二世が、ヴェネツィア海軍の反撃にめげず、防鎖を避け、背後の丘陵を越えて陸から七十二隻の船団を金角湾に押し入れる奇策を実行したのである。金角湾への予期せぬ海軍の出現。ビザンツ側は、守備隊を金角湾沿いの城壁に展開せざるを得なくなり、防衛線は伸び切った。そこに、一日七回発射される巨大大砲“皇帝”の540~590㎏の砲弾が着弾する。十二門の大砲による、二十日に亘る砲撃。難攻不落の城壁には、大きな亀裂が生じた。樽や瓦礫、資材が積み上げられる。たが、次々と穴が生じ、コンスタンティノープルは遂に追い詰められた。

五月二十八日夜、ビザンツ皇帝は側近スフランゼスと共に、馬で城壁を巡回した。のちに捕虜となったスフランゼスは、城壁の外ではオスマン軍が広大な野営地を築いて焚火を行ない、明朝からの攻撃の準備をしていたと記す。焚火、本当にいやな数の焚火であった。オスマン帝国軍は、スルタンの命で、聞えよがしに声を揃えて歌を聞かせた。夜の静寂に響く、カスタネットとタンバリン。野蛮と形容される歌声は防衛側を恐怖に陥れた。


五月二十九日、ビザンツ帝国は最後の日を迎えた。未明、聖ロマノス門付近の穿たれた穴から、オスマン軍が突入していった。城壁の損壊部には柵が築かれるだけである。縄梯子と鉤付縄を用意し、あとはいかなる犠牲も無視してひたすら数に物を言わせた突撃を行なう。そうすれば、いつかは防衛側に隙が生じ、柵に取り付いたいずれかの軍団がこれを乗り越える。あとは時間の問題であった。第一波、オスマン帝国従属国から派遣されたキリスト教徒兵。第二派、アナトリアのトルコ軍団。そして第三派、イェニチェリ。ジェノヴァ人傭兵隊長ジュスティニアーニは、胸を負傷し、ロマノス門を捨てて後退した。これに動揺した兵達の一部が退去を始めた。そして、内城壁のケルコプルタという小さな出入口。五十名のトルコ兵が、この出入口が開いていることに気付いた。言い伝えによると、この出入り口は、コンスタンティヌス十一世が柵への移動を早く行うために、わざわざ開けておくよう指示していたという。これが真実かどうかは、今となっては分からないが、ともかく出入口が開いていた。すなわち、聖ロマノス門付近に巡らされた防衛線が崩壊し、城壁が突破されたのである。朝六時頃、コンスタンティノープル最後の時が始まった。


ビザンツ皇帝コンスタンティノス十一世は、この日未明に、残兵約三千と共に城壁付近で消息を絶った。皇帝も無事ではなかっただろう。だが、遺体はついに見つからなかった。二十九日の朝に殺害された兵と非戦闘員の数は約四千人にのぼると分析されている。

コンスタンティノープルはオスマン軍の略奪に晒された。修道院に逃げ込んだ多くが捕虜となり、奴隷となるか、身代金を求められる身となった。オスマン軍は、犬に聖職者の衣を着せ、イコンを焚火にくべた。肉があぶられ、かつての聖餐杯に葡萄酒が注がれる。

かたや逃がれる者達は、必死であった。最も賢明だったのは、ヴェネツィア人・ジェノヴァ人の船に気付いた者達だった。金角湾の沖に十五隻。ヴェネツィア人やジェノヴァ人、そして大金を用意した裕福なビザンツ人。彼らは小舟を漕ぎ出し、船に乗り込んだ。負傷した傭兵隊長ジュスティニアーニも、船に逃れている。正午、各船は留まれず、出航した。

最もしぶとかったのは、枢機卿イシドロスである。顔に矢傷を受けたイシドロスは、聖ソフィア教会に後退し、オスマン兵が迫るや、道端の死体の服に着替えた。「顔面包体だらけの一般人イシドロス」は群衆に紛れた。その後、僅か一〇〇ドゥカートの身代金で解放され、ぺラを経て、“オスマン軍の船で”キオス島に逃れた。イシドロスは、一四四二年にもキエフ公国から命懸けの脱出をしている。こういう人は、何があっても死なない。


正午過ぎ、メフメト二世はかつてのビザンツの都に入城した。結局、大砲をもってしても、かの城壁には裂け目を作ることしかできなかったな。アウグスティオン広場に、聖ソフィア教会。美しい。メフメト二世は、古代の色残る建築群に涙した。この一大都市を捨て置くつもりなどない。かの城壁も、これからは帝国のものだ。略奪は慣例通りの三日間。ここを「我が玉座」とする。生き残った住民の保護と、トルコから五千家族の移住が命じられた。夏、メフメトは宰相ハリルを処刑した。没収した金貨十二万枚。貯めたものだ。この金は国庫へ。テオドシウス広場の新宮殿(トプカプ宮殿)の建設に充てるとしよう。

一四五四年、メフメト二世は修道士ゲンナディオス・スコラリオスをコンスタンティノープル総主教に任命した。キリスト教も構わぬ、但し、モスクでは我が勝利を称えよ。一四五七年頃、市場やキャラバンサイトの建設で商人職人が集まり、人口は十万に向かった。

というわけで、大航海時代の序章となる「コンスタンティノープルの陥落」です。ヨーロッパの東に、オスマン帝国が立ちはだかる形勢が生まれました。


①いわゆる、“文明の衝突“というものですが、詳しくみると複雑です。そもそも、大砲の技術を提供したのは「ハンガリー人(キリスト教徒)」であり、イタリア半島の援軍も“控えめ“、オスマン帝国の宰相にいたってはビザンツ帝国との融和通商派でした。メフメト二世にしても、コンスタンティノープル陥落後には「キリスト教を信仰したいならかまわん(自分を認めるなら)」と言い出す始末。

してみると、ことの本質は「大国と大国の経済戦争」でありました。本作、人の難 衆の狂では、これから後世のモデルケースとなる様々な形の戦いが出てきますが(応仁の乱の、二大連合勢力の衝突とか)、

このコンスタンティノープルの陥落も、「大国対大国の一対一の戦い」ということになります。


②ユーラシア大陸の諸国家の特徴は「城壁都市」。これは、四方を海に囲まれた日本の都市との違いです(ある意味、日本は「天然の海の壁」を国家ごと持つという話ではありますが)。これは、東洋・西洋・イスラム世界に共通することで、明の北京城にしたところで、「城壁都市」です。

なので、コンスタンティノープル陥落の眼目は、「ハードウェア(巨大大砲・三重城壁・海上交通封鎖要塞)」対「“それ以外の何か“」です。結局、巨大大砲は、城壁に割れ目をいれただけ。結局、コンスタンティノープル市民やビザンツ内部の結束の弱さが、陥落を招いたのであり。結局、要塞で海上交通封鎖が可能になったのも、イタリア半島諸国がビザンツ帝国援助に本腰ではなく、またオスマン帝国に対していらざる外交策謀に出て(オスマン帝国の後継者問題に介入)それらあれこれで、「ビザンツ帝国が自ら外交的に孤立を深めたから」なのです。よって、コンスタンティノープル陥落の決定打は、「ハードウェアではなく、ソフトウェアの失策による」のです。


ここから、学ぶべきは、いわゆる大艦巨砲主義はいつの時代にも存在するが、結局のところは「決定打ではない」(あくまで、大きな要素の一つに過ぎない)こと。


③もう一つは、「滅ぶものは、孤立の道を選んだもの」ということでしょう。千年の繁栄を誇ったビザンツ帝国も孤立の道を選んで最後は滅びました。もし、オスマン帝国に対して、下手な後継者問題介入をしなければ。もし、イタリア半島諸国(ローマ教皇ら)ともっと融和していれば。ビザンツ帝国には、未来が残されていたのではないかと思うのです。何となれば、「コンスタンティノープル自体は、オスマン帝国やトルコ共和国の首都イスタンブールとして、現代ですら繁栄する」わけですし。結局は、孤立よりも融和が賢明といえます。


④ビザンツ帝国の崩壊は「大国崩壊のモデルケース」でもあり、「大国を滅ぼすハウツー」でもあります。「政治的孤立+経済流通封鎖+内部崩壊(大軍での威圧、情報による士気低下)→あとは、本当に滅ぼすだけ」、こうなれば、ビザンツ皇帝が戦場で勇壮な姿を見せても後の祭りなのです。

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