【大内の野望】
一四二五年七月、九州に動乱が起き、大内盛見が討伐のために都を離れた。京童曰く。
『相撲よりとめたきものは二つあり 大内のくだり御所の黄衣』
“公方様(将軍足利義持)の相撲好きよりも、止めたきものが二つあり。大内の下国と公方様の黄衣(僧服姿)”
腹を立てた義持は、諸大名に相撲の禁止を命じたが、黄衣姿は変えなかった。
一四五四年関東乱れる頃、世を捨てた前関東管領・上杉憲実は、西国を行脚していた。
『船にて西国へ赴周防国へ行脚あり』(鎌倉大草紙)
“船で西国へ赴き、周防へ行脚した”
この地は、大内教弘が治める。大内盛見又は持盛の子といわれ、一四四一年、嘉吉の変で京に倒れた大内持世の養子となり、大内家の家督を継いだ。『一代の猛将、千古の王孫』(器之為璠禅師行巻)とは、長門大寧寺の器之為璠の評である。守護は四カ国。
●周防・長門・豊前・筑前:約76万石・兵力約1万9千(一四五三年頃推計、GDP4.57%)
一四四一年七月、播磨の赤松満祐討伐に少弐教頼は兵を出さなかった。十月、教弘は九州に渡り、幕命を奉じて少弐を攻撃している。後年、東にも勢力を拡げ、安芸武田氏の本拠金山城を攻めた。大内領国は、守護四カ国に加え、安芸・石見・肥前の一部に及んだ。
『大内殿威勢を中國九州までふるひける』
“大内殿は、威勢を中国・九州に振るった”
『都には武衛。細川。畠山ともに末なり』
都にいる斯波・細川・畠山。三管領のうち、すでに斯波と畠山が分裂弱体化している。
『大内は大名にて威勢もありければ天下の御後見を望』
“大内は大大名で威勢もあるので、天下の後見を望んだ”
『三家の外は執事の例もなし』
“だが、三管領家の他は、その先例がない”
教弘は領国を固めた。山口では盛んに歌会が催され、一四五二年十一月には成親王筆の李花集を相伝している。博多の国際交易が振興され、一四五三年、李氏朝鮮から「通信印の右符」を送られた。勘合貿易を実現したのである(船一隻で「八千貫文=8〜16億円(中央値12億)」、利益率84〜86%、一四五三年推計GDP1,247億の0.8%)。連年船を出せば、GDP5%以上の経済掌握が可能となった。これは、足利将軍家財力の55%以上を意味する。山口には京風文化が花開き、一四五四年頃には、画聖雪舟(三十五歳)が山口に入った。
そこに(一四五二年頃?)、上杉憲実が到来した。驚喜した教弘は、憲実を大寧寺に迎えた。
『大内殿は憲実の養子になり・上杉山の内系図を継。篠の丸にまひ雀の幕の紋を請』
“大内殿は憲実の養子となり、山内上杉の系図を継いで、旗を請うた(一族となった)”
教弘曰く、『ここへ来たりけるこそ幸いなれ』。大内は、京で管領となる足掛かりを得た。




