【明へ行こう9―帰国―】
一四五四年四月二十二日、日本使節団は北京を出て、南京に引き返していた。
『今日、爾の硫黄を還す。明日、伱の銅子・蘇木を還さん』(笑雲入明記)
“今日、そなたたちの硫黄を返す。明日、銅と蘇木も返そう”
『廿三日、硫黄三万斤・銅子一千二百五十扛を出だし、これを還す』
“二十三日、硫黄3万斤と銅1,250が返ってきた”
先に使節団は、景泰帝個人等に対して、3万3,100斤と銅2,500を贈呈している。明が、硫黄3,100斤と銅1,250のみを受け取って、他を返還したのは、贈り物の礼儀作法だろうか。
『廿六日、太監、価の新銭三千万<宣徳分>を出給す』
二十六日、明側から貿易額のうち『銭三千万』が日本使節団に渡された。二十七日には、『紗絹子五千端』(高級な絹5,000ということだろうか)が渡された。
五月十四日、杭州府和仁県に入った。
『十五日、呉山駅。正使安らかならず。先に武林駅に入る』
“十五日、呉山駅。正使(使節代表)東洋允澎が体調を崩し、先に武林駅に入った”
ここで、使節団代表である東洋和尚が倒れたという。一年七ヵ月に及ぶ長旅で、体を崩したのだろうか。十七日、一行は明側から、無事『銭銅三千万』を受け取った。つまり、明からの支払は、南京と杭州の二ヵ所で半分ずつ行なわれたのである。景泰帝は「9万4908貫」を提示しているので、『銭銅三千万』とは精確には「4万7,454貫」を指すのだろうが、『笑雲入明記』を書いた笑雲は「書記役」であり、財務役は使節団副代表の如三芳貞なので、どうやら笑雲は“精確な数字を教えられていなかったようだ”。
『十九日、正使東洋和尚、武林駅に終わる』
十九日、代表の東洋和尚は“亡くなった”。第十一回遣明使の“収益の実態”を知るのは、副代表のみとなった。「北京~寧波」間を往復した使節団三百人には、“口封じ役”が混じったか、と邪推したくなる話である。往路の喧嘩騒ぎも妙だ。後年にも、この手の騒ぎは起きたが、例えば「金を払ったが品を渡さなかったので喧嘩となった」など、理由の分かる喧嘩をしている。この時の、止めにきた役人まで瀕死にした喧嘩は、不自然に見える。将軍足利義政の日明貿易成功を望まぬ人達が“寺社勢力付近”にいたようだ。晩、笑雲らは、やむなく柳洲寺で葬儀を行なった。寺の長老は、自ら仏事を行なってくれた。
三十日、一行は寧波に戻った。六月一日、勤政堂で久々に陳大人に会った。
『大人喜ぶ』
笑雲が長期間の滞在で身に付けた中国語を使ったところ、陳大人は喜んでくれた。
『三日、綱司芳貞、杭州より至る』
三日、今や“収益の実態”を知る唯一の男(副代表)が、ようやく寧波に到着した。四日、笑雲がのんきに張楷の家を訪れて詩の遣り取りをする姿を確認した、副代表は、五日ようやく今次貿易の“売上”を笑雲に公表した。
『価の銅銭を給うこと、杭よりここに至るまで計三万貫』
“杭州から寧波までに明からもらった銅銭は3万貫でしたよ”
すなわち、副代表・如三芳貞は明皇帝への売上を偽ったのである。
●隠蔽された収入:9万4908貫-6万貫(南京で3万、杭州で3万)=3万4908貫
今日の価値で言えば「34億~69億円」にのぼる金銭が隠蔽され、帰国後、“どこかに流れた”計算となる。おそらくは、“寺社勢力付近”と西国大名達(大内・大友・島津か)に。
笑雲は、そんなことを露も知らない。七日、太守高第から茶飯の接待を受けて、使節団一行千二百人の皆と共に、のんきに舌鼓を打つだけであった。
八日、各船の乗客のうち、武士に『紗絹子』が分配された。
『十四日、趙文端・阮貴玉の二通事、寧波衛に留まる』
十四日、北京まで同行した通訳二名(趙文端・阮貴玉)が寧波に“留まることになった”。貿易交渉を知る人は“副代表・如三芳貞”のみが帰国となったのである。
十五日、日本使節団は寧波を出港し、明国を離れた。
『陳・李二大人、知府主大人、送りて東門港に至る』
“陳大人と李大人、知府主大人が東門港まで見送りに来てくれた”
七月八日、船団は李氏朝鮮・推山に至り、日本の漁船に出くわした。
『日本漁人小舟六、七隻、ここに在り。来たりて我国の平安なるを談ず』
“日本の小舟の漁船六、七隻が停泊していた。「日本は平和そのものですよ」と話をした”
この年四月三日頃に、畠山弥三郎が養父持国と対立して細川勝元邸に逃げ込んでいるのだから、あまり平和ではないのだが、九州近辺は平和そのものだったようである。
十日、終日雷雨が降り、晩に大魚が船の側を過ぎた。笑雲は鯨だと思ったが、水夫は『鯨に非ず』(鯨ではない)と主張した。十一日、一行は漁翁を乗せ、南に出航した。十二日朝、左に対馬。夕方、右に壱岐。志賀島に停泊できた。十四日、長門国赤間関。通関手続きが行われる中、笑雲は今次遣明使の記録に用いる年号を、「享徳三年」(日本年号)に改めた。
さて、復命を受けた将軍足利義政は仰天した。喧嘩騒ぎ。売上たったの“6万貫”だと。
『以後者不可過三艘、人数不可過三百人、自大唐此分相定』(蔭凉軒日録)
“「以後は三艘、三百人を超えてはならない」(景泰約条)と明から通達を受けました”
慌てた義政は外交に出た。一四五九年二月、李氏朝鮮国王・李楺から、明に使いがあった。
『国王源義政以先差去進貢使人失礼、蒙朝廷恩宥放回、将本人科罪、今欲差人赴京謝罪』
“国王源義政から、使節団の失礼と赦免のうえの帰国につき。謝罪の使者が来ました”
「奪門の変」で復位した英宗(天順帝)は、これを受け入れた。一四六五年、日本から第十二回遣明使が派遣され、以後、一五四七年第十九回まで両国の交流は続いた。




