【脱線三・土木の変】
一四四九年、「正統十四年」は英宗にとって、良き年になる筈であった。
『二月丁巳、御史丁瑄、指揮流福撃斬鄧茂七於延平』(明史)
“二月、御史・丁瑄と劉福が鄧茂七を延平で斬った”
宗教の絡まぬ、珍しい反乱だった。だが、春のうちに鎮められた。夏六月、英宗は天下に恩赦を施した。この小さな勝利が、秋の出来事の伏線となった。
秋七月十一日、長城方面から急報がもたらされた。
『瓦刺也先寇大同、参將呉浩戰死』
“オイラートのエセン・ハンが大同に侵攻し、右参将・呉浩が戦死した”
『脱脱ト花王は遼東に寇す。阿刺知院は宣府に寇し、赤城を囲む。又別に人を遣わし甘州に寇せしむ』(英宗実録)
“トクトブハ王が遼東、アラクチンサンが宣府の赤城、別働隊が甘州に侵攻した”
モンゴル諸王による四路同時侵攻。脅威であったが、モンゴル軍は明奥地に進むほどの備えを持たない。司礼監太監・王振の進言なくば、事態は全く別の方角に進んだだろう。
『報至るや親征を議す』
“急報が届くや、英宗は親征を議した”
王振め。城さえ固めておれば良いものを。十四日、焦る高官らは、上奏を行った。
『吏部尚書王直師羣臣諫』
“吏部尚書王直は、群臣を率い、英宗を諫めた”
だが、十五日、大同において北辺警備に当たっていた諸将が陽和でモンゴル軍に敗れた。
『西寧候宋瑛、武進伯朱冕與瓦刺戰於陽和、敗沒』
“宋瑛・朱冕が陽和で討たれた”
郭敬は草に隠れてしのぎ、石享は辛うじて戦場を離脱した。
全軍崩壊。英宗は、京衛・親軍衛(首都防衛軍・皇帝直属軍)はおろか、外衛(地方軍)を含む大軍を組織し、十六日北京を進発した。公称五十万。兵器八十万、兵糧一ヶ月。
何だ、この事態は。たった五日で進発だと。これだけの地方軍をいつ集めた。王振か。従う群臣は狐に化かされたような表情をし、『みな紀律なし』(国権)。軍の士気は著しく低かった。二十三日、群臣は宣府で撤退を進言したが、怒る王振に黙した。二十四日、鶏鳴山。野に守備隊の屍が転がる。どうか、せめて戸部尚書王佐と兵部尚書廣埜を先行させて下され。だが、王振は、膝つき懇願する朱勇らに怒気を発し、夕暮れまで彼らを跪かせた。
夜、日月五星が不気味な輝きを見せた。だが、英宗を案じる彭徳成を、王振は罵った。
『もしかくあらば亦天命なり』
“もし、かくあらば、また天命なり”
御史李賢が王振の暗殺を企てた。だが、計画を持ち掛けられた明帝国宿将・張輔は、実行に同意しなかった。永楽帝の時代、安南平定を成し遂げた、宿将張輔。日頃、王振にさえ対等の礼をとる老将(七十五歳)は、それゆえに遠征の軍政から外されていた。
『輔老えり、黙黙として敢えて言わず』(明史)
“張輔は老いていた。口を閉ざし、あえて何も言わなかった”
八月一日、親征軍は大同に進んだ。先日、宋瑛・朱冕らの軍が全滅した場所である。野に晒される大量の屍に、初めて王振の顔が変わり始めた。所詮は宦官か。先日の戦いで、死地を逃れたばかりの郭敬は、親征軍に合流していた。郭敬は王振派の将であった。
にわかに大雨が降った。それにしても、何故モンゴル軍は気配すらしないのだ。郭敬の頭をある言葉がよぎった、「虜の計」。伏兵か。進めば、おそらく、一斉攻撃が待つ。
『鎮守太監郭敬諫』
“郭敬は王振を諫めた”
司礼監太監殿、進めば囲まれますぞ。王振は恐怖し、急に天候による行難を口にした。
『振、遂に師を旋らさんことを議す』(英宗実録)
“王振は、遂に撤退を英宗に進言した”
英宗は宦官王振に逆らわない。幼少期から近侍する王振を「先生」と慕うのみである。
『旋師』(明史)
突如、軍は北京に向けて旋回された。
十日、宣府に後退した。ここで軍を休ませる。十三日夜、間諜からモンゴル軍追撃の報が届いた。まもなく、モンゴル軍は明の遊撃部隊を捕捉した。モンゴル軍は、山に拠り、一斉攻撃を行う。矢と石が、明軍遊撃部隊を容赦なく殺戮していく。
『恭順候呉克忠、都督呉克勤戰沒』
“呉克忠と呉克勤が討たれた”
矢尽き、敵に囲まれても、呉兄弟は引かない。呉克忠は槍でモンゴル軍に突撃し、数十を道連れにして討たれた。呉一族は、永楽帝から姓を賜ったモンゴル人であった。
遊撃部隊を救おうと公朱勇・薛綬らの別働隊(四万程度)が向かった。
『至鷄兒嶺埋伏、全軍盡覆』
“鷄兒嶺で埋伏の計(伏兵)にあい、全軍が壊滅した”
モンゴル軍は、崩壊する明軍にあって弦断たれ矢尽きても、空弓を振り回し向かってくる男を見付けた。モンゴル軍は男を八つ裂きにした。男は薛綬。彼もモンゴル人であった。
『これ吾と同類なり。故に勇なることかくのごときなるか』(英宗実録)
我々と同類ではないか。ゆえに、かくも勇猛であったか。戦場にモンゴル軍の慟哭が響く。
十四日、英宗ら明本軍は土木に後退していた。土木堡。高台だが水泉なく、南の河はモンゴル軍に押さえられていた。明軍数十万は、水を断たれた。
十五日。遠巻きにモンゴル軍に包囲され、水なく渇く明軍数十万は、土木に立ち尽くす他なかった。絶望する明軍は、信じ難い光景を見た。モンゴル軍が後退していく。
やがて、モンゴル軍から使節が到来した。和睦がしたいのだという。英宗は、曹鼐を召し出し、講和の勅を起草させた。明軍は退却していくモンゴル軍を横目に、河に向かって陣を動かす。水なき軍が高所を下りた。渇いた兵達は、将が止めても、河に向かって先を争って走り出していく。軍列乱れ、明軍数十万は、形を失った。
『師潰、死者數十萬』(明史)
“明軍は潰された。死者、数十万人”
モンゴル軍の一斉攻撃が始まった。
『英國公張輔、泰寧侯陳瀛、駙馬都尉井源、平郷伯鎮守懐、襄城伯陳悁、修武伯沈榮、都督梁成、王貴、尚書王佐、廣埜、学士曹鼐、張益、侍郎丁鉉、王永和、副都御史鄧啓等』
無論、討たれた者の一部である。
『皆死』
王振も殺された。
『乃ち乱兵のために殺さる』
但し、味方の乱兵によってであった。遅まきながら、暗殺計画が実行されたのだろうか。
十六日、錦衣衛校尉袁淋は捕虜となり、雷家沾高岡にあった。約十五年後、袁淋が提出した『北征事蹟』によると、この日、袁淋は軍中に英宗をみとめた。皇帝は地に座り込み、モンゴル兵らに囲まれている。袁淋は、地に頭を叩きつけ、慟哭した。英宗が袁淋に気付いた。
『汝は何者か』
袁淋は答えた。
『校尉』
英宗は、一瞬袁淋を見つめた後、言った。“天子のそば仕える指揮だと言え”。
『汝は字は書けるか』
袁淋は目をみはった。これは。先日まで、宦官王振に従うばかりであった皇帝か。答えた。
『書けます』
この日から、袁淋は英宗の近習となった。英宗は軍数十万が倒れる中、一人端坐し、南面したという。皇帝はいかなる時も、南面す。あなどったモンゴル兵が上衣を贈ろうとしたところ、拒んだ。怒り刃を向けるモンゴル兵を、別の兵が止めた。エセン・ハンの弟賽罕王に見せたところ、汝はエセンか伯顔呫木兒か大同王かと問うた。驚く賽罕王はエセンのもとへ大明皇帝らしき人物を捕らえたと伝えた。このような出来事を、『明史』などは、『帝北狩』(皇帝は北方に狩りにお出掛けになった)などと記す。確かに『狩り』である。英宗はもう一度玉座を奪い返そうと決意したのだから。




