【明へ行こう5 ー日明交渉史1、応永の外寇ー】
一四五三年十月二日、紫禁城奉天門。これで三度目の景泰帝への謁見である。
『表文を捧ぐ』(笑雲入明記)
“将軍足利義政からの表文をささげた”
京では管領細川勝元が畠山持国と権力闘争を続ける。使節団は、独力で、これから景泰帝と通商交渉を行わなければならない。僅か三百人で明国と対峙しなければならない。
一方、景泰帝も日本を重視する。謁見回数が証左である。唐朝以来の親交国である。曽祖父永楽帝の時、『源道義』(足利義満)を国王にした。道義は、初代洪武帝らと長期間外交交渉を重ねたあげく、日本国王となった。その間、道義と細川頼之の策で、洪武帝が以前に太宰府の『良懐』(南朝・懐良親王)を国王にしたのを逆手に取り、『良懐』からだと嘘の明らかな使節を何度も明に送り込んだ。国交は開くが、こちらの苦労は踏まえて欲しい。苦労人の洪武帝は、根負けし、「明を慕って来た使節団だから応対してやれ」と言い出し、遂には「日本は攻めるな」と言い遺した。義満の姿に建国当時の功臣らを重ねたのかもしれないし、銅・硫黄の宝庫である日本との交易の実を選んだのかもしれない。
だが、道義の子『源義持』(足利義持、義政の伯父)は、永楽帝に対して国を閉じた。
『義持不用命。自称征夷大将軍。而国人則謂之誤射』(世宗実録)
“足利義持は明に服さず。征夷大将軍と名乗っている。国では、「御所」と呼ばせている”
『其書只曰日本国源義持。無王字』
“外交文書では「日本国源義持」と名乗り、わざわざ「王」の字を外してきた”
永楽帝は激怒し、一四一八年、内官・呂淵を兵庫に派遣した。
『父及朝鮮王◯◯◯皆事我汝獨不事予遣将同朝鮮行兵汝及高城深池待之』(老松堂日本行録)
“そなたの父と朝鮮王は我に従った。朝鮮と兵を送る。城を高く堀を深くし待つのだな”
一四一九年六月二十日、李氏朝鮮は対馬に侵攻した(応永の外寇)。
ー文永の役と弘安の役の九州侵攻。洪武帝の九州冊封。これで四度目かー
義持は、すぐさま李氏朝鮮に使者を派し、大蔵経を求めさせた。真意は、侵攻目的の確認であった。あれは、明の先遣隊か。
一四二〇年、李氏朝鮮は宋希璟を日本に派遣した。二月二十八日、対馬の早田左衛門太郎(倭寇の頭目的存在、対馬の有力者、李氏朝鮮から官位)が、孔逹らに問うた。
『朝鮮去年行浜於此島今此島又属於慶尚道其文前日来也』
“朝鮮は去年島に侵攻し、いま「島を慶尚道に属す」との文書が前日到来しましたが”
『此島乃小二殿祖上相傳之地也二殿若聞之則雖百戰百死争之』
“この島は少弐殿相伝の地です。もし少弐殿が聞けば、百戦百死しても抵抗するでしょう”
憂いに満ちた顔をした左衛門太郎は宋希璟らの船を訪れ、書が九州に届けば、宋希璟らが拘留される可能性を説き、文書を少弐に送るか、ここに置いたままにするかを問うた。
宋希璟は豪胆にして、公正無私の外交官であった。
『此島我國得其地無以居得其地無以居得其人無所用』
“対馬を我が国が得ても人が住むところもない。島民を得ても用いるところではない”
ただ、一部の者が言い出してきたので、それに応じようとしただけだ。
『予以此啓聞于』
“私が朝鮮王(世宗)に言上しておく”
この時の宋希璟の公正な対応の結果、対馬は李氏朝鮮の領土になるのを免れた。
四月二十三日、宋希璟は京の深修菴に赴いた。魏天(幼少時、海賊によって明から日本へ、長じて洪武帝に面会、義満のもとで通訳。重宝され財貨、日本人妻と二女、七十歳)と陳外郎(帰化明人の子、義満に仕えて外交・医学に貢献)と面会した。
曰く、少弐からは「明船千艘・朝鮮船三百が攻めてきたので撃退した」との報告(大げさ過ぎる報告、明船は来ていない)があって、御所(将軍義持)は激怒しておられます。
『今官人適来到兵庫吾等用心故官人入来也此意知之』
“ちょうど明から呂淵が再び兵庫に来たので、用心してましてな。(合わせた)貴官の来訪の真意をお伺いしたい”
宋希璟は臆さず熱弁を振るった。対馬行兵の真意を説明いたす。去年の春、対馬の賊が我が国沿岸の民を殺し、兵船を略奪しました。王はそれで征伐を行ったのです。
『只伐賊輩其都々熊丸則存之至於九州皆安之』
“ただ賊だけを討て、それ以外は討つな。九州には手を出すな“
日本本国に侵攻する意図はありませぬ、王に害意あらば大蔵経も送りませぬ。
『馬島在日本朝鮮間常竊寇盗其王令亦不従今予討之其王聞之則必喜之也若彼』
“対馬には日本朝鮮を行き来する倭寇がいて、日本国王の命令も十分聞かぬという。賊を討伐する分には、むしろ日本国王も必ず喜んでくれるだろう”
つまり、李氏朝鮮国王は“「倭寇」と「日本国」は無関係”(倭寇の活動による被害も日本とは無関係)というのが、公式見解であった。
『大明同心行兵本國之事則必無之事也』
“(ですから、我が朝鮮が)大明と同心して日本本国を攻撃することはありえませぬ”
外郎は、更に孔逹・仁輔を呼んで問うた。貴官らがお持ちの文書の年号は。「永楽」です。
『以龍集改書年号可也』
“「竜集」(「一年」を意味する、明の年号でも日本の年号でもない“中立的な年号表記“となる)に改書いただけませぬか“
宋希璟は驚き答えた、死んでも改書はできませぬ。にわかに、等持寺の恵珙と林光院の周頌が同席した。対馬攻撃は日本国王も喜ぶでしょう、と発言したうえで「永楽」年号の文書を渡されるのは、明の存在を背後にちらつかせた圧力行動にも見えた。恵珙と周頌は聞いた、貴官は一体何のために来訪された。
『回禮及通信也我、殿下即位今已三年欲通鄰好』
“先の来航への回答と通信のためです。我が国王殿下(世宗、上に明皇帝がいるので「陛下」ではなく「殿下」)は即位して三年、隣国日本との友好のためです”
では文書を見せていただきましょうか。宋希璟は草文を開いた。そこに書かれたのは、日本と李氏朝鮮の友好を謳った内容で、恵珙らはようやく表情を和らげた。
『殿下無有他意但與吾御所親厚之意也吾等已知之』
“殿下に他意なく、御所(将軍義持は「日本国王」ではなく、あくまでも「御所」)に厚き親善の意あるのみだとよく分かりました”
御所に伝えます。かくして、両国の衝突は回避された。
五月、宋希璟は一日から日本の人達が魚を食べないことに気が付いた。
『是月乃前王沒後十三忌尽朔故御所及國人不食魚不殺生』
“五月は鹿苑院(義満公)の十三回忌でしてな。御所も皆も魚は食べず、不殺生なのです”
宋希璟は清廉な外交官であった。同行の孔逹・仁輔を呼んで言った。
『國人皆不食魚吾獨食魚吾輩亦不食魚』
“日本の国の人達が、魚を食べない時だ。われらもまた魚を食べるのはよそう”
外交は、結局、人と人の繋がりが要のようだ。三日後、宋希璟は来訪を受けた。
『御所聞官人不食魚感喜々々』
“御所様が、貴官らが魚を召し上がらないと聞き、たいそう感動しておられます”
ここらの出来事を見ると、義持は政治的には父義満の政策は覆したが父義満個人を嫌ったようには見えない。室町幕府を一手に引き受ける四代目となって、父の苦労と真意(何だかんだで、義持を将軍の座から下さなかった)が分かったのかもしれない。
この日を境に、宋希璟の泊まる寺堂は清められ。義持から命を受けた斯波義淳の指示で、甲斐殿の応対はたちまち厚くなった。堂の警固二十名。家事役七八名。食事は一日四度。
『其費一日ヨウ銭二三貫也』
“その費用は一日で二三貫(40〜60万円)になると聞いた”
六月十三日、義持が甲斐殿の邸を訪れた。将軍来訪時、屋敷の主人は将軍に弓・剣・鞍馬・銭物を献上し、水陸の味を競うという。その際、将軍は斯波・管領を率いて来訪し、主人が妻と庭で迎える。女達が将軍を迎えて接待し、主人は堂外で賓客の応対をする。将軍が邸に入ってから、主人も邸に入るという。宴席終了後、将軍は浴室に入る。
『主婦随入去王身垢』
“夫人が一緒に入り、将軍の垢をとる”
あやしい習慣だと宋希璟は思った。魏天曰く、生真面目な御所(義持の母も、正室ではなく、父義満の行動にあれこれ苦労した)も気にされて、ある僧に問い質したことがあるのですが、その僧によれば、これは儒家にもある風習で、何かあった場合、生まれた子供は僧籍に入れ、然るべき女性の子とするそうです。
六月十六日、宋希璟は宝幢寺で、遂に義持との面会と文書披露に成功した。
『官人遊観諸寺』
“貴官、寺々を観光されるとよい”
この時点で、「永楽」年号の文書を受け入れた日本は、”日本国王ではなく、独自の年号を用いるが、かといって明皇帝に敵対する訳でもない”という位置付けになった。明では一四一〇〜一四二四年永楽帝がモンゴル遠征に掛かりきりとなっている。義持は、モンゴルとの戦闘が続く明に対して“様子見”に入った形となる。
かくして、宋希璟が方々を観光して回ったため、当時の風習が記録に残ってしまった。
『日本之俗女倍於男』
“日本の庶民の生活であるが、女は男の二倍いる”
医療が未発達の時代で、男子は乳幼児の際、半数がなくなったようである。
『於路店遊女迨半其淫風大行店見行路之人則出於路而請宿請而不得則執衣而入店』
“京の路地では、遊女(舞妓さんの原型みたいなものだろうか)が着物をちらつかせ、人が通ると出てきて、宿に誘う。断る人も、店に引っ張り込まれている”
村々は海辺に多く、女性も日焼けしている。寺に入った二十歳以下の男子は、眉を描き、顔に朱粉をぬる。派手な衣を着て、女形である。後年、一休の糾弾するところである。
『其土風人生男女則擇善男女各一為僧尼』
“家庭に(たくさん)男女が生まれた場合、男女各一名、寺に入れられる”
一四〇〇〜一五〇〇年に掛け、日本の人口は約1270万人から約1540万人に増える。そのあたりの子沢山事情が反映されてか、寺に入る子供は多かったようだ。
六月二十五日、宋希璟は返書を受け取り、二十六日、世話になった甲斐殿の家臣狩野に別れを告げている。
『騰醇且直向我愛而敬自初支對之事全掌日益謹慎幾無倭風與我國謹厚之人無異也』
“藤(狩野)は実直で、私に敬愛を向けてくれ、世話役を管掌したが。日が経つほど慎み深くなる人で、習俗を押し付けること少なく、我が国の謹厚の人と何ら変わらなかった”
『臨別先泣吾上下皆泣別』
“別れにのぞみ、藤が先に泣き出すので、私も上下もみな泣いてしまった”
数ヵ月酒杯を共にし、日久しくしていよいよ慎み深い狩野であった。
『今朝忽分袂我心悲以辛朝鮮與日本自昔相交鄰況今為一家』
“今朝、別れることになり。我が心は悲しい。朝鮮と日本は昔から隣り合う国である。まして、我々は一つの家で過ごしたのだ”
かくして、日本・李氏朝鮮・明の危機は回避された。その際、三国の平和は、宋希璟の人柄に負うところが大きかったのではないだろうか。少なくとも、彼以外では成し難かった。
蛇足1:「将軍が御成りの際、夫人がお風呂の世話」
一見どうでも良さそうな風習ですが、
意味を深く考えると、
各家で「将軍のご落胤」が誕生した可能性があるという、
ことになります。
何が言いたいかというと、例えば、「畠山義就」です。
●畠山持国の晩年に誕生(本当にお父さんは持国なのか?)
●石清水八幡宮の「僧籍」に入る予定だった(源氏の総大将足利が大好きな石清水八幡宮)
→“実は父親は足利義教だった”とか。
それで義政の時代に、一気に家督、とか。
斯波家にも、そんな人がいましたね。
「一旦僧籍に入ったが、急に当主になった」人物は、
将軍のご落胤である可能性を考えてはどうか、
と思う次第です。
蛇足2:西洋と東洋の外交決着の違い?
●西洋の場合:「大きな条約」を結ぶ。(ウェストファリア条約とか)
→要するに、「一つのルール」を決めて、
各国が“以降はその内容に合わせて行動する”ことで決着。
なのですが、
●東洋の場合:「大きな落とし所」を作る。(本段ですね)
→要するに、「柔軟性の高いルール」を見出して、
各国が“なるべく、これまでと変わらない行動で落ち着けるようにする“ことで決着。
この辺が、本作のテーマである「東洋と西洋と日本の出逢い」にふさわしい話題になりそうなので、
今後も見ていきたいと思います。
どちらが優れているかなんて、無意味な話なので、
“そういうものだ”という話。
あるいは、”それを前提にして、お付き合いをした方が、お互いに仲良くしやすい“という話。




