【明へ行こう4 ー日明交渉開始ー】
一四五三年八月十六日、海会寺。
『寺の前に伍子胥の廟有り』(笑雲入明記)
英雄・伍子胥。呉王夫差は一時の勝利に酔って伍子胥を殺し、越王勾践に敗れた。呉は滅ぶべくして滅んだのである。明の太祖洪武帝は、諸官を粛清したが、軍師劉基には手を下さなかった。彼と洪武帝、両者を分けたのは何か。
二十四日、揚子江を渡る。北は揚州。広陵駅を過ぎる。二十五日、邵伯駅。
『承官逃亡し、日衆を館せず』
“役人が逃亡したので、日本使節団は宿泊できなかった”
明は広い。港町で栄える寧波とは異なり、役人が逃亡する場所もあるようだ。二十六日、淮安府山陽駅で船二隻と、すれ違った。刺麻国の僧が乗るようだ。九月一日下邳駅。七日沛県。すっかり徐州である。九日、山陽魚台県。
『魯の地なり。栗を拾う。士女はみな菊花を簪す』
“魯の地である。栗拾いをした。この地の女性は、皆菊花の髪飾りを付けている”
十二日、漁舟百隻あまりとすれ違った。みな鶴を乗せている。十五日、臨清清原駅。
『斉の地なり。桓公廟・晏子廟有り』
斉の桓公は多国主義外交を行った君主。晏子は三十年間一枚の服で政務した名宰相である。
二十五日、通州通泮駅に着いた。諸船を繋ぐ、ここからは陸路である。二十六日、一行は車馬・駅驢に乗り換え、北京に向かった。晩、崇陽門をくぐった。
『官人、人員姓名を記し』
“役人が使節団各人の姓名を記した”
厳重である。一行は会同館に入った。寧波から五十日、すなわち、ここは北京城であった。
北京城は広い。中央の紫禁城を護るように街が設置される。二十七日、一行が案内されたのは、南東の鴻臚寺。明の外務局である。
『朝参の礼を習う』
二十八日、一行は紫禁城内部に通された。
『奉天門に皇帝に見ゆ』
“奉天門に皇帝・景泰帝が姿を見せた”
官人が皇帝の御成りを唱する。礼に従い、身をかがめて拝し、立ち上がって叩頭し、また立ち上がって平身してひざまずいて叩頭した。三度の礼。皇帝拝謁の礼である。
一行はただちに宴会場のある闕左門に快走する。
『宴を賜う』
宴終わり、一行は再び端門におもむき、ひざまずいて叩頭し、退出した。我々は、この男と交渉しなければならないのか。礼部院に戻る。尚書は胡濚。その道五十三年、七十九歳。




