【明へ行こう3 ー雨天欠席ー】
一四五三年五月十五日、笑雲瑞訴らは天童山景徳寺を観光した。仏殿に、祖堂。開山義興の碑。玲瓏巌と大白峰の間には塔。双沼万工池。大規模な貯水湖か。
二十一日、陳大人がまた宴席を設けてくれた。それにしても厚礼である。四日の宴では、鐘や鼓、歌踊が朝から晩まで続いた。この日は皆が招かれた。『笑雲入明記』に曰く。
『人伴・水夫等に賜うに、麺粉・砂糖・酒・醋・塩・醤・鮮笋・揚梅・油・菜・鵝・雞』
お供や水夫まで、豪華な料理。商人・僧は八百人以上、船員は三百人以上いるのだが。
二十七日、勤政堂でまた宴席が設けられた。だが、その中途で北京礼部から使いが来た。
『宴いまだ半ばならざるに』
“宴はいまだ半ばにもなっていなかった”
なるほど。一連の宴と観光は、我々千二百人に対する“素行確認”も、兼ねていたか。
『日本国進貢船来朝するを聞くり速やかに闕に起こしめよ』
“日本国の進物船が来たと聞いた。速やかに北京に上京せよ”
来たか。「礼部」の連中は、陳大人らと少し色合いが異なるようだ。翌二十八日から検問が開始された。船から荷がおろされ、東庫に運ばれる。荷物検めは六月四日まで続いた。
五日、笑雲らは浙江省の省都杭州から来た役人と面会を設定された。
『三司官に謁す』
都指揮使司(軍事)・承宣布政使司(民政、周大人)・提刑按察使司(司法、馮節)。当時、杭州の各長官は「正二品〜正三品」。今、寧波に来た三人は「従三品〜正五品」である。州の高官だった。つまりは、軍事・民政・司法の一次査定を突破したのである。
六日から景泰帝への品の本格的な検査が行われた。硫黄、蘇木、銅などが検査を受けていく。やれ不思議な検査だ。何のための二次検査だ。十四日、船団九艘各船の代表者が、副使(副代表)如三芳貞の泊まる二号房に集まり、対応を議した。如三は東班衆の僧である。財務練達者として、実質的な交易実務統括者だった。応じる他あるまい。
十六日、思案した如三は、こちらから陳大人を招くことにした。
『日本様の飲酒を備え、陳大人を享す』
“日本酒を用意し、陳大人を饗応した”
十八日、両者の間で知恵の出し合いがあったのか、省都杭州に向け、貢品が出された。
『日本貢馬二十匹を送り、杭州に起つ』
名馬は二十頭。巍大人に連れられ、武士一名・供五十名が杭州に向かう。二十日、検査は一段落した。北京の礼部、省都の役人、寧波の陳大人ら。どうやら、それぞれの立場は異なり、それぞれ対応を考えていった方が良いようだった。
二十一日、陳大人が、勤政堂で省都の役人らへの饗応を、行ってくれた。二十五日、温州に到来した琉球船の貢品は「馬十五頭・硫黄二万斤・蘇木千五百」と聞いた。
一四五三年七月十三日、寧波で行う事務手続きは終了した。
『諸船の貨物、起送の外はこれを還す』
“船団九艘の貨物のうち、景泰帝に渡す分「以外」のものが還ってきた”
これで、船団に乗船する商人・僧ら(八百人以上)も安堵する。十四日、省都の役人らは杭州に帰った。笑雲らが、それを見送る。十五日、九艘の船長らが浜に下りた。四十日を超える検査が無事終わった祝いである。
『水陸会を設く』
笑雲ら僧も皆出席した。十八日、官人張楷の子張伯厚が科挙のため杭州へ発った。父張楷は鄧茂七の乱(一四四八〜一四四九)で寧波に左遷された。合格してほしいものだった。
八月、明国皇帝の景泰帝の誕生日が近付いた。一日、笑雲らも天寧寺に招かれた。
『皇帝聖誕の礼儀を習う』
“皇帝誕生日(に天寧寺で行う儀礼)の礼儀を習った”
諸官に、府学県学の秀才達(官人予備軍)。寺々の僧達。厳粛な礼が行われる。秀才の代表が、階上に立ち、寿ぎを唱える。笑雲らは、文化の違いを感じた。すごい予行演習だ。日本では、帝や将軍の誕生日でもここまでしない。儀式は大抵ぶっつけ本番。手順に失敗あっても、口やかましい貴族が日記に愚痴を書く程度である。失敗したらまずそうだ。
三日、景泰帝誕生日。気が進まぬ。交易に来たのに、厳粛な儀式か。大体、「礼部」とかいう連中は宴の最中に割り込んできたし、船荷の検査は不自然だった。おや雨だ。
『日衆、雨に因り起たず』
“日本の使節団は、雨が降ってきたので、儀式に参加しなかった”
雨だ、仕方ない。そっそれに、過ぎた臣下の礼で、義満公以来の外交関係を変えられぬ。
『陳内官、大いに怒る』
陳大人から大いに怒られた。四日、陳大人は北京に発つ一行に茶飯席を設けてくれた。だが、景泰帝に渡す銅・太刀が”若干減っていた”史実は指摘しておく。お詫びに配ったのだろうか。
六日、北京に向かう使節団三百人が安遠駅を発った。七日、車厩駅で越王勾践像を見る。明代、首都北京からは主要七方面に駅路が設置された。水陸が両用される。笑雲らは、その一つ、「北京〜南京〜浙江・福建」の路を用いた。船を換え、陸地を行船し、十一日銭塘江を渡る。東が越、西が呉。十四日、浄慈寺で長老の玉岡潤和尚から茶を振る舞われた。侍者が繊香を掲げ、中央に立つ。揖香の礼。揖茶の礼。ここでは何でも礼だな。
十五日、殿で祝聖が行われた。一僧が薬師如来号を唱え、維那が回向を読む。
『「今上皇帝」に至るや、大衆同音に「万歳、々々、万々歳」と呼す』
笑雲らは「皇帝」の段に至るや、「万歳」と叫ぶ大衆の声に囲まれた。明国初代・太祖洪武帝は、諸官を粛清し、民政を充実させた後、「礼」を遺した。大明帝国は礼の国だった。




