【明へ行こう1】
一四五二年十月二十六日、京を出立する集団があった。細川勝元が畠山持国から管領職を奪回しようとする頃、京政界の震動を余所に、集団は一路西海を目指す。
二十八日、一行は摂津兵庫に至り、永福道場に寄宿した。ここで風を待つ。
十一月九日夜半、待ちに待った東風がきた。一行は船に乗り込み、兵庫を出港した。
●第十一回遣明使:正使(使節代表)東洋充澎・副使(副代表)如三芳貞
一行の正体である。参加者は千二百人(蔭凉軒日録)、船数は九艘。
●船の構成:一号船〜十号船=①天龍寺②伊勢国法楽社③天龍寺④九州探題⑤島津(しかし渡航中止)⑥大友⑦大内⑧多武峯⑨天龍寺枝船⑩法楽社枝船(蔭凉軒日録)
注目すべきは、第十回まで皆勤だった「幕府船」が不参加な点である。第九回・十回に参加した「山名」も不参加。その代わり寺社船が目立つ。「天龍寺船」の背後は幕府。「伊勢国法楽社」は伊勢神宮、「多武峯」は大和方面寺社、つまり、幕府寺社三隻・寺社三隻・西国大名三隻。将軍足利義成の狙いは、財力強化と山名宗全の排除だった。
第十回遣明使は一四三四年頃だから、実に十数年ぶり。その間、明では土木の変が起きた。久方振りの船団派遣は「復興した明との交易」が第一であり、「国交の安定化」が第二。「体制が変わった明に、幕府が表立たない寺社船ばかりの九隻で行き、宣徳要約(一四三四年・第十回遣明使)の“交易船は三隻”を解除」が第三だったのではないか。宣徳要約は、『明使』と根本史料の『壽海図編』のみに記載がある、実在に諸説ある条約だが、十数年間の交易停滞と、第十一回船団の不自然な構成を見た限り、実在したと思われる。明が体制転換した際、日本側が取り決めを修正しようと行動に出るのは、足利義満以来、日明交渉ではよくあることである。現に、一朝臣に過ぎない征夷大将軍が『日本国王』に定着している。義満のごり押しの成果である。
一四五三年八月十八日、冬から春を筑前博多で過ごした一行は明へと出航した。
『一号船、博多を出て、志賀島に掛く』(笑雲入明記)
笑雲瑞訴も一号船に搭乗した。笑雲は臨済宗五山派の僧。船団の記録と明国応対者との交流を命じられていた。その復命書が『笑雲入明記』である。現存する、数少ない日明交渉・日明貿易の記録となった。
二十四日、船団が必要とする重要物質が届いた。
『薩摩船硫黄を載せて至る』
島津家からの船が、硫黄を乗せ、到着した。これで天龍寺の手配した品が揃う。
『油黄三十九万七千五百斤、加進物一万斤定、此内二万三千斤□□(一百?)諸自帝王給之、銅十五万四千五百斤、簀黄十万六千斤、太刀九千五百振、加進物定、長刀四百十七振、ヤリ五十一、扇千二百五十本、蒔絵物大小六百卅四色』(大乗院日記目録)
硫黄、銅、蘇木(漢方薬に使う生薬)、太刀(腰刀)、長刀、やり、扇、蒔絵である。




