【享徳の乱、開始3】
一四五一年十一月二十一日晴れ。夜、斯波家でようやく当主千代徳が元服した。加冠は持種。烏帽子に狩衣、輿に乗って将軍邸に出仕する。その脇を六騎の武者が固める。髪が整えられ、従四位下治部大輔の官位が与えられ、「千代徳」に代わって将軍から「義健(「義」が偏諱)」の名が与えられる。斯波家臣は、元服した当主による家運興隆を祈ってやまなかった。こうした斯波に対し、将軍の生母日野重子が甲斐入道への同調を決めた。母から叱りを受けた公方(義政)は、織田郷広の赦免を取り消している。慌てた郷広は、当主義健にすがったが容れられず、越前で甲斐入道の命を受けた久広に討たれた。尾張守護代は織田敏広に落着したのである。この敏広が、「岩倉織田家(尾張上四郡)の祖」である。
だが、翌一四五二年九月一日、義健が僅か十八歳で夭折した。義健をもって名門斯波家は嫡流が絶えた。斯波家は、持種の子義敏を当主に迎えたが、持種と甲斐入道が対立。斯波持種・甲斐常治・織田(尾張守護代)・朝倉(越前有力者)が家中を乱した。
江の島合戦。畠山分裂、斯波混乱、将軍失墜。管領畠山持国を追い落とすには、十分であった。十一月、山名宗全と連携する細川勝元が管領に復した。
そこから、細川・山名と持国の暗闘が続く。一四五三年五月二十八日、流言が広がった。
『管領以我成敗被書出奉書御教書事等、及度々之』(康富記)
“管領(勝元)は、たびたび我意に任せて御教書(将軍の命令書)を発行している”
管領辞任が取り沙汰されたが、八月十二日反撃に転じた勝元は新法十六条を定めた。
一四五四年四月、神保越中守らが弥三郎を家督に付けようとした。激怒した持国は、遊佐国助に神保を討たせたが、三日頃弥三郎が勝元邸に逃げ込み、弥三郎派家臣多数が勝元と宗全の庇護を受けた。細川山名と畠山の対立は、衝突に及ぼうとしていた。
七月十日晴れ。中原康富は藤澤の許へ行き、老比丘尼から源氏物語を聞いた。
『室町殿姫君御誕生云々、御生母儀御新參局子阿茶子ト申云々』
“室町殿(足利義政)に姫君(次女?)が誕生した。母は今参局の子、阿茶というらしい”
産所には細川勝久(父氏久?、備中守護)の宿所が使われた。細川は将軍と一体である。
持国・義就派からは脱落が相次いだ。十八日晴れ。康富は中御門万里小路の南西角にある文亭(文書庫)を訪ねた。主人は他所に移っていたり女中らもそうだという。
『彼屋形近邊為釘貫内、合戦相待朝暮之時分也、為類火、釘貫内非無怖畏』
“畠山邸が近いので釘貫を打って門を閉じたが、合戦で火事が起きれば安心できない”
まったく言語道断の騒動であった。都には諸国の軍勢が集まってきている。
『局務文庫之文書等被運移他所』
”局務文庫の文書は他所に移した”
十九日晴れ。康富は文亭主人の逃れる池軒を訪れた。亭主民部卿から、夕食と酒が出た。
『此五日十日之間、畠山伊予守勢多落失、逃入山名』
“この五〜十日、畠山義就勢の脱落者が山名のもとに逃げ込んでいる”
山名は既に弥三郎派を庇護している。更に、この時、義就派の脱落者まで受け入れた。義就派から寝返り多数ということか。それとも、宗全には魂胆があったのだろうか。
八月二十一日晴れ、いよいよ緊張が高まった。山名教之・細川勝久(父氏久?)・武田勢が御所を警固する。その他諸国の軍勢が馳せ参じたが、勝元と宗全は姿を見せない。
斯波家には警固のお呼びが掛からなかったという。
『夜半過、中御門朱雀、近衛朱雀邊焼亡』
“夜半過ぎ、中御門朱雀、近衛朱雀のあたりが焼けた”
『畠山勢、先度連々没落、牢人等悉押寄放火』
“畠山持国・義就勢は、次々没落した。弥三郎派牢人が邸に押し寄せ、放火したのである”
持国は、畠山義統(能登守護義忠の孫、能登畠山家三代目)邸に逃げた。
『子息伊予守義夏、落行山名相州亭之處、無許可之間、立歸遊佐河内守宅』
“義就は山名教之(伯耆守護)に入邸を拒まれ、家臣・遊佐国助宅に逃れた”
二十二日晴れ。暁、室町殿に諸軍勢馳せ参じる中、南東から火の手が上がった、
『遊佐河内守家自放火、同西頰隅田家同放火云々』
“遊佐国助は自ら邸に火を放ち、西隣の隅田家も同じく火を放った”
義就は、遊佐国助・隅田と共に、河内へ逃れた。この時、義就十八歳。
二十六日晴れ。康富は中御門万里小路西南の文第を訪れた。昨日帰って来たと知ったのである。覚順禅門も来訪し、雑談となった。
『畠山左衛門督入道可隠去之由被申、雖然、不可然之由、為上意被留之』
“畠山持国入道が隠居したいと申したそうだ。だが、「ならぬ」と公方が止めたらしい”
元のように弥三郎に家督を譲ってやれ。義政(十八歳)の内意を受けた持国(五十六歳)は、二十八日建仁寺西院に隠居した。同じ日、弥三郎は義政にお目見えし、二十九日畠山邸に入った。勝元、二十四歳。盟友山名宗全、五十歳。
九月京に日常が戻った。八日、近辺で土一揆が蜂起し、晴れ渡る空の下、下京に乱入した。土倉が襲撃され、諸大名が防戦するなど、都は平常運転に戻ったのである。だが、この土一揆が弥三郎の運命を狂わせた。十日、判断に困った弥三郎は持国を寺から邸に引き取ったのである。自然、畠山は持国入道の意で動くようになった。これに面目を失った弥三郎派家臣西形入道ら十名程が切腹した。京近辺、山城は畠山被官が多い。京近辺の者が起こしたというこの土一揆。持国・義就派との共謀があったのではないか。
十三日暁から雨、土一揆は相国寺に打ち入り、祠堂銭借物を破却した。
十四日晴れ、管領細川邸で凶事が起きた。
『被官人磯谷四郎兵衛尉兄弟、於管領屋形囚之、被誅戮之』
“家臣の磯谷四郎兄弟が管領邸で囚われ、殺害された”
磯谷は、管領のもとに逃げ込んだ畠山弥三郎を、復権するまで宿所で預かっていた。
『引起今度大儀之間、上意有御憤之故、被仰付管領』
“「こんどの騒ぎを引き起こした」と公方が怒り、管領に命じたという”
十五日、中原康富は三河守と共に中御門文第に招かれ、朝食を共にした。
『磯谷押領氷所闕所有密談子細』
“磯谷は氷所の無領主地を押領しようとしたそうな“
明らかに、誅殺理由の後付けであるが。死人に口無し。磯谷は泉下であった。将軍義政は勝元と宗全の軍事行動に激怒していたのである。壮絶な巻き返しが始まった。
十六日、下鴨糺河原に展開した土一揆が、突如郷に退散しているのが確認された。
二十日晴れ。誰が事態の勝者か分からなくなりつつあった。
『金吾入道今日出仕也、去月以来、世間物総就巷説無出仕云々、與細河不和之儀属無為』
“宗全が今日出仕したら。先月以来、世間が騒がしく、細川と不和になったが、何も起きなかったからである”
義政・持国は、勝元と宗全を離間し、連携を断つ動きに出た。
十一月二日、宗全を退治せよとの沙汰が出た。いつのまにか、宗全が討伐対象となったのである。二十七日、将軍邸で奇妙な光景が展開された。持国が出仕したのであるり
『弥三郎並右衛門佐同出仕、彼両人引禅門之手、彼參御前』
“弥三郎と右衛門佐も出仕し、両人が持国入道の手を引き、公方の御前に参じた”
義政に太刀が献上され、盃の遣り取りがなされる。
『今不思議令本復、被申出仕、希代事也』
“今、不思議の回復を遂げて(病か。翌年三月に死去する)出仕するなど稀代である”
ありえぬ。とは、中原康富が思わず記した感想である。十二月六日晴れ、宗全が京を離れた。
『今日但馬下向也、違上意隱居之由風聞』
“今日、(領国)但馬に下向した。上意に背いたので隠居させられたという”
娘婿勝元の取りなしで討伐を逃れ、辛うじて隠居になったといわれる。十三日、義政の内意を受けた畠山義就が帰京した。十四日、義就は将軍邸に出仕し、その他諸大名のもとを御礼に訪れた。二十六日、居場所を失った弥三郎が没落し、行方知れずとなった。
西が落着した。だが、東国に大異変が起きた。十一月二十三日に享徳地震が起き、東国は大地震に襲われ、奥州は津波にのまれたのである。鎌倉の足利成氏は行動を決意した。
『鎌倉殿成氏持氏御子、去年十二月廿七日、管領上杉右京亮房州入道子鎌倉殿御所に召し出され、誅伐せらる』(康富記・峰岸純夫「享徳の乱」五四頁)
“鎌倉殿成氏が、十二月二十七日、関東管領・上杉憲忠を御所に召し出し、誅殺した”
庭の畳に憲忠の首が備えられる(金子祥水兄弟が「多賀谷」の名を与えられ結城家家老に)。まもなく、結城成朝・武田信長・里見義実が上杉邸を襲撃した。「亨徳の乱」開始である。
序章の【赤入道を懲らしめろ】で触れた大地震です。
戦国の動乱は、この大地震をもって始まりました。




