【享徳の乱、開始2】
一四四九年十月五日晴れ。畠山持国が遂に細川勝元に代わって管領に復した。若年の勝元(十九歳)では、老獪な持国(五十一歳)を抑えきれなかったのである。十二月十七日、細川家では有力一族の細川持常(阿波・三河守護)が急逝している。
『非此間病気、俄中風歟』(康富記』
“この間、病気ではなく、にわかに中風でなくなったようだ”
持常は一四四八年、赤松則尚を播磨守護にするよう将軍義成と政所執事伊勢貞国に運動し、山名宗全の反感を買っている。その死で、宗全と勝元(女婿)は、連携が容易になった。
一四五〇年六月二十六日、持国はうかつにも実子義就に「全所領」を譲る決定をした。この四月に、関東では江の島合戦が起きている。他にすることがあっただろうに。
『惣跡令譲與子息次郎義夏、被申賜安堵御判』
“子息義夏(義就のこと、既に将軍「義」成から偏諱)に跡を譲り、安堵を受けた”
養子弥三郎を無視した決定である。殿は、河内配流に同行した側近達にまた操られたか。重臣神保越中守・椎名・土肥らが反発した。持国は信濃守護問題でも、小笠原光康を退けて持長(持長の母が何の縁か持国に再嫁)に家督安堵状を与え、信濃を二分している。持国への反発は強まり、畠山家中は分裂した。
七月十六日、持国は管領辞職を申し出、八月十六日に慰撫された。だが、都では内裏御料所・備前鳥取の年貢四千貫(8〜16億円)を納めぬ代官山名兵部の罷免にしくじった持国の失政が取り沙汰され。斯波千代徳の家臣、尾張守護代織田家の家督問題で、織田敏広から郷広(敏広の父、荘園横領で逐電か)に戻すよう口入れがなされ、甲斐常治入道(斯波家執事、越前遠江守護代)が介入する情勢を止められぬ、調整力不足が指摘された。
一四五一年三月十一日。中原康富と清和院長老の面会に、斯波家臣遊用入道が同席した。
『織田如元可歸参間事、為公方有御口入之處、甲斐不承引之由』
“織田敏広が元のように尾張守護代帰参となりましたが。公方様へ(今参局を通じて)口入れしたことに、甲斐入道が反対してます”
だが、管領持国は、二十七日息子義就を伊予守に就任させ、それを喜ぶばかりであった。
十月十三日、晴れ。このままでは、斯波家は立ち行かぬ。甲斐入道が行動に出た。
『甲斐入道参公方、斯波修理大夫同被出仕申』
“甲斐常治入道が、斯波持胤(甲斐とは、普段は不仲)と共に将軍邸に参上した”
『織田郷広御口入被止、彼間事属無為之間、畏申為御禮所参入』
“織田郷広に関する口入れを止め、この間のこと(郷広の守護代復帰)をなかったことにされるよう、畏れながら申し上げるため、御所に参上しました”
そう言って、入道は、将軍への進物を差し出した。陪臣による将軍への抗議など、凡そ義教の時代なら考えられない。入道の意地は、将軍の権威をも動揺させたのである。




