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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【享徳の乱、開始1】

一三三六年一月二十七日、関東から京に侵攻した足利尊氏は、奥州の北畠顕家の追撃を受け、苦境にあった。新田義貞・楠木正成。山門から、一斉攻撃が始まった。

『将軍御兄弟あやうく見えさせ給』(鎌倉大草紙)

両将軍の危機、その時、敢えて敵軍に向けて前進する一団が現れた。

『憲房中御門京極にはせふさがり散々に防戦家の子郎等皆討死』

“上杉憲房が中御門京極に馳せ塞がり、散々に防戦し、上杉の家臣団は皆討死した”

上杉憲房。足利尊氏・直義の伯父(母上杉清子の兄、親父殿と慕われた)であった。憲房は奮戦の末、深手を負い、祇陀林地蔵堂で自害した。この犠牲がなければ、尊氏の九州での再起はなく、足利の天下もなかった。かくして、室町時代、上杉は特別な家となった。


その間、京は畠山持国によって揺れ続けていた。一四四七年五月頃、持国は加賀守護問題で富樫教家・成春父子(反義教派)に加担し、泰高(叔父)と成春(甥)による二分で問題を落着させた。そして、室町殿義成が長ずるに従い、細川と山名の脅威を唱え、復権を策した。一四四八年十一月、僧侶にする筈だった実子(義就十二歳、妾腹の子、晩年誕生)を元服させ、養子弥三郎を退けた。弥三郎は弟持富の子で、持国が足利義教に河内に追放された際、復帰を支えた弟への感謝として後継者になる筈だった。


一四四九年四月末、鎌倉から将軍・管領山名以下諸大名に馬が献上された。

『畠山左衛門督入道方よりは、馬よくもなきとて、被追返不被請取』(康富記)

“畠山持国入道は、馬が良くないと言って、受け取らなかった”

持国は、足利成氏を鎌倉公方にしたにもかかわらず、その後距離を置いていたようだ。

 五月十一日晴れ、権大外記・中原康富は主水殿と面会した。

『南禅寺安置之料一切経板木、高麗國在之間、被渡船之處、一切経無為令到来』

“南禅寺にある「一切経」の版木は、高麗から船で渡ってきたものです”

『自高麗國有上進之貢物、虎豹皮、各十枚、布三十端、人参三百両』

“高麗からの交易品は、虎豹の皮(各十枚)や布、人参などでしてな”

高麗といえば。康富は主水殿に尋ねた。

『刀伊賊来侵之由、太宰府注進之由古記に候、國名候哉』

“古書に「刀伊が侵攻してきたと太宰府より注進」とありますが、刀伊とは国名ですかな”

平安時代の「刀伊の入寇」を指すのだろう。主水は、高麗隣国の異族ですよ、と答えた。

 近年、異国との交流は盛んである。八月二十六日頃、琉球国商人が京に到着した。

『令進上薬種並料足一千貫文』

“薬種と銭一千貫文(1億〜2億円)を献上してきた”

琉球王国は、一四二九年第二代国王・尚巴志が三山(中山・山北・山南)を統一している。第四代国王・尚思達は、土木の変で混乱する明情勢を踏まえ、日本に接近したようだ。

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