第7話 最終返信室
扉の向こうは、何もない白い部屋だった。
壁もない。
床もない。
天井もない。
ただ、白い光だけが果てしなく広がっている。
その中央に、机が一つあった。
古い学校机のようにも見えるし、会社の会議室にある長机のようにも見える。
病院の診察室の机のようにも、役所の窓口の机のようにも見えた。
人が、答えを待つ場所。
人が、結果を聞かされる場所。
人が、自分では決められない何かを、誰かから渡される場所。
その机の向こうに、未練王が座っていた。
黒いコート。
影に隠れた顔。
胸に埋め込まれた古いスマホ。
画面には、相変わらず同じ文字が浮かんでいる。
最後の送信。
七年前。
未読。
僕とリノは、扉の前で足を止めた。
後ろの扉は、音もなく消えていた。
退路はない。
リノが白い羽根の剣を構える。
その剣はさっきより明るくなっていた。
でも、彼女の手はわずかに震えている。
僕も右手に意識を集中させる。
再生線の白い光が、手の中に生まれた。
まだ細い。
まだ頼りない。
でも、確かにある。
未練王は、机の上に三つのスマホを並べた。
一つ目の画面には、白乃ユイの名前。
二つ目の画面には、リノの待っていた相手らしき名前。
でも、その名前は黒く塗りつぶされていた。
三つ目の画面には、未練王自身の最後の送信。
また、明日。
僕の喉が鳴った。
未練王は静かに言う。
「ここは最終返信室」
その声は、白い部屋全体から響いていた。
「返ってこなかった言葉の、最後の行き着く場所だ」
机の上の三つのスマホが、淡く光る。
「君たちは進むと言った。未完成のままでも歩けると言った。ならばここで試そう」
未練王が、白乃ユイの名前が表示されたスマホに指を置いた。
「読め」
たった一言。
それだけで、胸が締めつけられた。
画面には、文章の途中までが表示されている。
ハルくん、
この前のことなんだけど――
ごめ――
その先はまだ見えない。
でも、今なら読める。
机の前まで行けば。
指で画面をなぞれば。
三十日間、欲しかった答えが見える。
リノが低く言った。
「ハル、駄目」
「わかってる」
そう答えたつもりだった。
でも、声が出ていなかった。
未練王は優しく続ける。
「ここまで来たのだ。逃げる必要はない。答えを知らずに進むことなど、ただの強がりだ」
「違う」
リノが言った。
「答えを見ることが悪いんじゃない。今、この場所で見せようとしてることが危ない」
「危ない?」
未練王はおかしそうに笑う。
「真実を知ることが、危ないのか」
「あなたが見せる真実は、真実じゃない」
「では、何だと思う?」
リノは答えない。
未練王は僕を見た。
「少年。君はどう思う」
僕は画面を見つめる。
ハルくん。
この前のことなんだけど。
ごめ――
ごめん、待たせて。
ごめんなさい、付き合えません。
ごめん、今は考えられない。
ごめん、本当は嬉しかった。
その先に、いくつもの可能性が重なって見えた。
どれもありえる。
どれも怖い。
どれも欲しい。
そして、どれも僕を止める力を持っている。
「……これは」
僕は、ゆっくりと言った。
「真実じゃなくて、分岐だ」
未練王の影が、わずかに揺れた。
リノが僕を見る。
僕は続ける。
「僕が怖がってる答えと、僕が欲しがってる答えが、ここには全部ある。どれかが本物かもしれない。でも、どれも僕の中にあった可能性でもある」
言葉にしながら、自分でも理解していく。
この塔は、現実と繋がっている。
だから本物の断片が混ざる。
でも、それ以上に、僕が見たい答えと見たくない答えを映す。
だから危ない。
本物かどうかを確かめようとするほど、僕は塔に引き込まれる。
「ここで読むことは、ユイの返事を読むことじゃない」
僕は言った。
「僕の不安と願望を、ユイの言葉みたいに受け取ることだ」
未練王はしばらく黙っていた。
それから、静かに拍手した。
「よく見抜いた」
拍手の音が、白い部屋に吸い込まれる。
「だが、それで何が変わる」
未練王の声が低くなる。
「君が欲しいのは、結局その先だろう」
白乃ユイのスマホ画面が、勝手にスクロールする。
文字が増えた。
ハルくん、
この前のことなんだけど――
ごめ――
ごめんね、待たせて。
胸が跳ねる。
やめろ。
そう思う前に、続きを読んでしまう。
ずっと考えてた。
喉が詰まる。
文字はさらに続く。
でも、まだうまく言葉にできなくて。
視界が滲む。
これは、本物じゃない。
わかっている。
でも、こんなにも欲しかった。
待たせてごめん。
ずっと考えてた。
うまく言葉にできなくて。
その一つ一つが、三十日間の夜に絆創膏を貼っていくみたいだった。
未練王が囁く。
「読むなと言われても、目は読む。耳を塞いでも、心は聞く」
その通りだった。
見ないと決めても、文字は見える。
読まないと決めても、心が勝手に意味を拾う。
リノが画面を切ろうと前に出る。
でも、未練王の影が彼女を遮った。
「君もだ、リノ」
二つ目のスマホが光る。
黒く塗りつぶされていた名前が、少しだけ剥がれた。
リノの顔がこわばる。
画面には、未送信ではなく、受信メッセージらしき文章が浮かび上がっていた。
ごめん。
あの日、行けなかった。
リノの呼吸が止まる。
「……やめて」
その声は、かすれていた。
文字が続く。
本当は、君に会いたかった。
リノの剣が揺れる。
未練王は言う。
「欲しかった言葉だろう」
リノは首を振る。
でも、目は画面から離れない。
「違う……違う」
「違わない。君が何年も待った言葉だ」
未練王は三つ目のスマホに目を落とす。
そこには、彼自身の最後の送信。
また、明日。
その下に、初めて返信が表示される。
ごめん。
明日は、行けない。
未練王の影が大きく揺れた。
彼自身もまた、画面から目を離せていなかった。
「……そうか」
彼は小さく呟いた。
「君も、そう言いたかったのか」
その声には、王の威厳はなかった。
七年待ち続けた、一人の人間の声だった。
白い部屋に、三つの返事が浮かぶ。
僕の欲しかった言葉。
リノの欲しかった言葉。
未練王の欲しかった言葉。
それらは優しかった。
あまりにも優しかった。
優しすぎて、嘘だとわかっていても、手を伸ばしたくなった。
「ねえ、ハル」
リノが震える声で言った。
「これ、嘘だよね」
「……たぶん」
「たぶんって言わないでよ」
「ごめん」
「嘘だって言って」
僕はリノを見る。
彼女は泣きそうだった。
いや、もう泣いていた。
「嘘だって言ってくれたら、切れるから」
その言葉が痛かった。
人は、嘘だとわかっていても、信じたい。
でも、誰かに嘘だと言ってもらえないと、手放せない時がある。
僕はリノの方へ一歩近づこうとした。
でも、その前に未練王が立ち上がった。
「嘘ではない」
その声は、これまでで一番強かった。
「これは可能性だ。届かなかった言葉の裏側にあったかもしれない真実だ」
「かもしれない、で人を縛るな!」
リノが叫ぶ。
未練王は彼女を見た。
「君たちも同じだろう。かもしれない、で生き延びてきた」
誰も反論できなかった。
未練王は続ける。
「嫌われていないかもしれない。待ってくれているかもしれない。いつか返事が来るかもしれない。そう思ったから、夜を越えられたのだろう」
かもしれない。
それは呪いだった。
でも、救いでもあった。
完全に希望を失ったら、その夜を越えられなかったかもしれない。
だから僕は、保留にしがみついていた。
リノも、未送信を抱えていた。
未練王も、七年を待った。
未練王は、三つのスマホを指差した。
「選べ。君たちの欲しかった言葉を受け取れ。そうすれば苦しみは終わる」
部屋の中央に、三つの椅子が現れる。
僕の前に一つ。
リノの前に一つ。
未練王の前に一つ。
座れば、読める。
座れば、受け取れる。
座れば、きっと楽になる。
僕は椅子を見た。
ただの椅子なのに、恐ろしく見えた。
ここに座った瞬間、僕は答えを受け取る側になる。
自分で立つことをやめる。
机の向こうから渡される言葉で、自分の価値を決める。
それは、今までの僕そのものだった。
僕は右手の再生線を握る。
でも、光が弱い。
画面の言葉が強すぎる。
ハルくん、
ごめんね、待たせて。
ずっと考えてた。
でも、まだうまく言葉にできなくて。
その続きが、もうすぐ表示される。
僕は見たい。
読みたい。
受け取りたい。
「ハル」
リノが言った。
彼女も椅子の前に立っている。
「私、座りそう」
正直な声だった。
その言葉に、なぜか僕は少し笑いそうになった。
「僕も」
「笑わないで」
「笑ってない」
「ちょっと笑った」
こんな状況なのに、僕たちは少しだけいつもの調子に戻った。
その小さなやり取りで、僕の足元に少しだけ現実が戻る。
リノは涙を拭わないまま言った。
「ねえ。どうする?」
僕は椅子を見た。
スマホを見た。
未練王を見た。
それから、自分の手を見た。
白い再生線。
今、ここを示す線。
過去の言葉でも、未来の返事でもない。
今の僕が、どこに立っているかを示す線。
僕はゆっくり息を吸った。
「受け取らない」
声は震えた。
でも、部屋に届いた。
リノが僕を見る。
未練王も、僕を見る。
「欲しくないわけじゃない」
僕は続けた。
「むしろ欲しい。今でもめちゃくちゃ欲しい。ユイから、待たせてごめんって言われたい。考えてたって言われたい。嬉しかったって言われたい」
言葉にすると、恥ずかしいくらい本音だった。
でも、もう隠さなかった。
「でも、それをこの塔から受け取ったら、僕は現実のユイを見られなくなる」
白乃ユイの画面が揺れる。
「僕が欲しいユイの言葉で、現実のユイを塗りつぶすことになる」
リノの表情が変わった。
未練王の影が濃くなる。
「僕は、ユイの返事が欲しい。でも、僕の願望で作ったユイに救われたいわけじゃない」
胸が痛い。
それは、きれいごとではなかった。
願望で作った優しいユイに、何度も救われたかった。
でも、それはユイじゃない。
僕の中の都合のいい幻だ。
「だから、ここでは受け取らない」
再生線の光が、少し強くなる。
「本物なら、現実で読む」
リノが、小さく息を吐いた。
そして、椅子から一歩下がった。
「私も」
彼女は震えながら言った。
「欲しいよ。あの日、会いたかったって言われたい。来られなかった理由を聞きたい。私のせいじゃないって言ってほしい」
リノの羽根の剣が光る。
「でも、それをこの部屋からもらったら、私はまた待つことになる」
彼女は画面を見る。
「あなたが本当にそう思ってたかは、もうわからない。でも、私が会いたかったことは、私が知ってる。私が傷ついたことも、私が知ってる」
リノの声が強くなる。
「だから、あなたからもらわなくても、私には届いた」
二つ目のスマホ画面が、大きくひび割れた。
未練王が動く。
「やめろ」
その声には、初めて焦りが混じっていた。
リノは剣を構える。
「やめない」
僕も再生線を握る。
二人の光が、白い部屋に広がる。
未練王の前の三つ目の椅子だけが、まだ残っていた。
彼のスマホには、返信が表示されている。
ごめん。
明日は、行けない。
未練王は、その画面を見ていた。
「……私は」
声が揺れている。
「私は、七年待った」
「うん」
僕は言った。
「それは、笑えない」
未練王が僕を見る。
「待った時間を馬鹿にするつもりはない。七年待ったことを、弱いとも言わない」
本心だった。
三十日で壊れそうになった僕に、七年を笑う資格なんてない。
「でも」
僕は続ける。
「その七年を、これ以上ここに閉じ込めなくてもいいんじゃないか」
未練王の影が、激しく揺れた。
「黙れ」
「待ったことを消せって言ってるんじゃない」
「黙れ!」
白い部屋が黒く染まり始める。
壁のない空間に、無数の未読画面が浮かび上がる。
七年前。
七年前。
七年前。
また、明日。
また、明日。
また、明日。
未練王の胸のスマホが、赤く点滅する。
「私の七年を、一区切りなどという軽い言葉で終わらせるな!」
声が部屋を割った。
黒い影が床から噴き上がる。
机が砕ける。
三つの椅子が闇に飲まれる。
白乃ユイの画面も、リノの画面も、未練王の画面も、すべて空中に浮かび上がる。
それらが溶け合い、巨大な一つの画面になっていく。
そこに表示された文字は、一つだけだった。
未返信。
リノが叫ぶ。
「来る!」
未練王の身体が、影に飲まれていく。
黒いコートがほどけ、無数のケーブルのような触手になる。
胸の古いスマホは巨大化し、彼の顔の代わりに埋め込まれた。
画面には、未読の文字。
その下に、七年前の日付。
さらにその下に、僕とユイの途中のメッセージ。
ハルくん、
この前のことなんだけど――
ごめ――
そして、リノの未送信。
ごめん。
まだ、待ってる。
でも、私も進む。
すべての言葉が、未練王の身体に取り込まれていく。
彼はもう、人の形ではなかった。
待ち続けた時間そのもの。
返ってこなかった言葉そのもの。
未返信世界の中心に沈んでいた、巨大な未練。
それが、僕たちの前に立っていた。
未練王の声が、無数の通知音になって響く。
「返事が来るまで、誰も進ませない」
リノが僕の横に並ぶ。
白い羽根の剣を構えながら、笑った。
怖そうなのに、ちゃんと笑っていた。
「最悪だね」
「うん」
「でも、ちょっと燃える」
「それはわかる」
僕の手の中の再生線が、剣の形に伸びる。
前よりもはっきりと。
未完成の剣。
でも、今の僕には十分だった。
未練王が吠える。
白い部屋が崩れ、僕たちは暗い塔の最上階へ投げ出された。
空は黒い。
足元には、世界中の未返信が星のように沈んでいる。
遠くで、朝のような薄い光が一筋だけ見えた。
たぶん、出口だ。
でもその前に、未練王がいる。
僕は息を吸う。
まだ、ユイの返事は読んでいない。
まだ、答えは出ていない。
でも、それでいい。
答えが出ていなくても、戦うことはできる。
未完成のままでも、前へ出ることはできる。
リノが言う。
「ハル」
「何」
「終わらせよう」
僕は頷いた。
「うん」
未練王が、すべての未返信を背負ってこちらへ迫る。
僕たちは同時に地面を蹴った。
返事を読まないまま。
それでも、前へ進むために。




