表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
返事の来ない夜に、僕は世界を救うことにした。  作者: 黒木明


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

第6話 読まない階段

返信塔の中は、外から見たよりもずっと広かった。


いや、広いというより、終わりがなかった。


壁も、床も、天井も、すべてスマホの画面でできている。


一枚一枚の画面に、誰かの言葉が映っていた。


ごめん。


ありがとう。


まだ好き。


もう無理。


返事できなくてごめん。


本当は、ずっと考えてた。


その言葉たちは、僕たちが通るたびに淡く光り、足音に合わせて小さく震えた。


まるで、踏まれるのを待っていたみたいだった。


塔の中心には、螺旋階段が続いている。


上を見ても、終わりは見えない。


ただ、暗い空洞の中を、階段だけがどこまでも巻き上がっていた。


リノは僕の少し前を歩いている。


光の刃を右手に持ち、いつでも振れるようにしていた。


でも、その背中はさっきより小さく見えた。


「リノ」


声をかけると、彼女は振り返らずに答えた。


「何」


「大丈夫か」


「大丈夫」


即答だった。


だから、大丈夫じゃないと思った。


けれど、さっきみたいに踏み込むのは違う気がした。


リノは自分の過去を少しだけ見られた。


それだけでも十分しんどいはずだ。


僕が何か言葉を選びかけた時、リノが先に口を開いた。


「さっきのこと、気にしないで」


「気にするだろ」


「気にしなくていい」


「無理だよ」


「じゃあ、少しだけ気にして」


「少しだけって」


リノはそこで初めて振り返った。


目元は少し赤かったけれど、いつものように軽く笑っていた。


「全部背負われるのは嫌。少しだけなら許す」


その言い方が彼女らしくて、僕は少しだけ笑った。


「わかった。少しだけ気にする」


「うん。それでいい」


リノは再び前を向く。


「この塔の中では、見えたもの全部を抱えようとしないで。あなたはすぐ抱えようとするから」


「そんなことない」


「ある。さっきの少年の時もそうだった」


「助けたかっただけだ」


「それはいい。でも、助けたいと抱えたいは違う」


その言葉に、足が少し止まった。


助けたい。


抱えたい。


似ているようで、違う言葉。


僕はユイにも、もしかしたら同じことをしていたのかもしれない。


大変そうだから支えたい。


体調が悪そうだから気遣いたい。


家庭のことで苦しそうだから力になりたい。


それは本心だった。


でも、その裏側で、僕は彼女の苦しさまで抱えようとしていたのかもしれない。


そうすれば、自分が彼女にとって特別な人間になれる気がしたから。


リノは静かに言った。


「人を助ける時、自分まで沈んだら意味がないよ」


「……経験者の言葉?」


「そう。痛いくらい経験者」


リノの声は軽かった。


でも、その軽さの奥に、濃い疲れがあった。


僕たちは階段を上り続ける。


一段、また一段。


足元の画面に映る言葉が、少しずつ変わっていく。


最初は、知らない誰かの言葉だった。


けれど、ある段から、僕の名前が混ざり始めた。


ハルくん。


夜瀬さん。


ハル。


僕は思わず足を止めそうになった。


リノがすぐに言う。


「止まらないで」


「今の、僕の名前」


「うん」


「じゃあ」


「たぶん幻」


「たぶん?」


「この塔は現実と未返信の境目にある。完全な幻もあるし、本物の断片が混ざることもある」


「見分け方は?」


リノは少しだけ黙った。


「ない」


「ないのかよ」


「だから厄介なの」


足元の画面が光る。


そこには、白乃ユイの名前が表示されていた。


メッセージ欄には、短い文章。


ハルくん、ごめんね。


僕の足が止まる。


止めようとしても、止まってしまう。


リノが振り返る。


「ハル」


「……わかってる」


「わかってる顔じゃない」


「だって」


言いかけて、喉が詰まった。


ごめんね。


それだけで、胸が苦しい。


本物かもしれない。


幻かもしれない。


どちらにしても、僕はその言葉を欲しがっている。


足元の文章が続く。


ずっと返せなくて、ごめん。


僕は息を呑んだ。


リノが近づいてくる。


「見ないで」


「でも」


「それ、本当に今読む必要ある?」


「本物かもしれない」


「本物だったとしても」


リノの声が強くなる。


「ここで読んだら、あなたは現実で読む力を失う」


意味はわかった。


ここで読めば、僕はこの塔の中で救われるか、壊れる。


でも、現実の部屋で、朝の光の中で、ちゃんと自分の手で読むことはできなくなる。


僕は足元の画面から目を離そうとした。


でも、文章はさらに続いた。


本当は、嬉しかった。


頭の中が真っ白になる。


嬉しかった。


その一文を、何度想像しただろう。


告白されて困っただけじゃなくて、少しは嬉しかったのだと。


僕の気持ちを、迷惑だけではなく受け取ってくれたのだと。


そう思えたら、どれだけ楽だっただろう。


画面の文字がにじむ。


本当は、嬉しかった。


それが本物なら。


もし本当にユイがそう思ってくれていたなら。


「ハル!」


リノの声で、僕は我に返った。


黒いインクが、足元から伸びていた。


階段の画面から染み出したインクが、僕の靴底に絡みついている。


「読むなって言ったでしょ!」


「読んでない」


「見てるだけでも飲まれる!」


リノが刃を振る。


足元の画面が割れた。


白乃ユイの名前が砕け、黒い欠片になって階段の隙間へ落ちていく。


胸が痛んだ。


まるで、本物のメッセージを壊されたみたいだった。


「何するんだよ!」


思わず声が出た。


リノはまっすぐ僕を見た。


「怒っていい。でも、今は進む」


「本物だったかもしれないだろ!」


「だから危ないんだよ!」


リノの声が、階段の中に響いた。


「本物かもしれない。そう思わせるのが、この塔のやり方なの!」


「でも、本物だったら……」


「本物なら、現実で読めばいい!」


その言葉に、息が止まった。


リノは一歩近づいてきた。


「ここで読まなくても、本物なら消えない。現実に戻れば、ちゃんとそこにある」


胸の奥が、少しだけ揺れた。


本物なら、現実で読めばいい。


当たり前のことだった。


でも、その当たり前が、今の僕には難しかった。


欲しいものが目の前にあると、人は現実を忘れる。


どこで受け取るべきか。


どういう自分で受け取るべきか。


そんなことより先に、ただ今すぐ欲しくなる。


僕は唇を噛んだ。


「……ごめん」


「謝らなくていい。私もさっき似たようなことになったから」


リノは少しだけ肩をすくめた。


「お互い様」


その言葉で、少しだけ呼吸が戻った。


僕たちはまた階段を上り始めた。


でも、塔は簡単には進ませてくれなかった。



次の踊り場に出ると、そこは会社の編集室だった。


僕の会社。


七人しかいない小さな映像制作会社。


壁のポスターも、安い椅子も、ケーブルだらけの床も、古いエアコンの唸る音も、全部がそのままだった。


ただ一つだけ違う。


部屋には、誰もいなかった。


モニターだけが光っている。


僕の席のモニター。


そこに、編集中の観光PR動画が映っていた。


タイムラインには、赤い修正コメントが大量に並んでいる。


『感情が伝わらない』


『テンポが悪い』


『若い人に刺さらない』


『何を見せたいのかわからない』


『やり直し』


胃のあたりが重くなった。


「ここは?」


「あなたの評価待ち」


リノが言った。


「評価待ち?」


「恋愛だけじゃない。仕事でも、あなたは誰かのOKを待ってる」


モニターの中で、動画が勝手に再生される。


夕日の海。


商店街。


笑う観光客。


地元の食堂。


悪くない素材のはずだった。


でも、画面には赤いコメントが次々と重なる。


『違う』


『弱い』


『足りない』


『伝わらない』


『これじゃない』


その言葉が、僕の胸に積もっていく。


仕事のミス。


自信のなさ。


何を作りたいのかわからない感覚。


僕はいつも、誰かにOKを出してもらって初めて安心していた。


クライアントのOK。


上司のOK。


ユイのOK。


誰かのOKがないと、自分の出したものを信じられなかった。


モニターの前に、瀬名さんの影が現れる。


本物ではない。


影でできた瀬名さん。


彼は僕を見る。


『お前、誰かのOKがないと、自分の仕事も終われないのか?』


その言葉に、胸が刺された。


「これは……」


「塔があなたの弱いところを見せてる」


リノが言う。


「恋愛の返事だけじゃなくて、あなたが人生で待っている全部」


影の瀬名さんが続ける。


『これで完成ですって、自分で言えるか?』


言えない。


僕はいつも、修正される前提で出していた。


誰かに判断してもらう前提で作っていた。


自分で完成を決めるのが怖かった。


完成と言った瞬間、責任が生まれるから。


恋愛も同じだった。


この恋はここまでだ。


今は待たない。


今日は自分の生活に戻る。


そう決めるのが怖かった。


決めた瞬間、自分の責任になる。


だから、相手の返事を待っていた。


相手がOKと言えば進める。


相手がNGと言えば終われる。


相手が返さなければ、保留のままでいられる。


僕は、自分で完成を決められなかった。


「……きついな」


声が漏れた。


リノは横に立ったまま、何も言わなかった。


影の瀬名さんが、モニターを指差す。


『全部大事に見える時ほど、完成しない』


タイムライン上に、僕とユイの会話の断片が混ざり始める。


大丈夫?


無理しないで。


返事は急がなくていい。


お大事に。


そして、その下に大量の未送信メッセージ。


本当は会いたい。


本当は寂しい。


本当は返事が欲しい。


本当は怖い。


全部が一本の動画素材みたいに並んでいる。


僕はモニターの前に座った。


マウスに手を伸ばす。


リノが少し驚いた声を出す。


「ハル?」


「たぶん、ここは戦う場所じゃない」


「じゃあ何するの」


僕はタイムラインを見る。


山ほどある素材。


大事に見える言葉。


消したくない気持ち。


捨てられない不安。


その全部を残そうとしたから、僕の中の映像は完成しなかった。


僕は再生線を動かした。


最初のクリップ。


大丈夫?


その下に隠れている本音。


心配してる。


でも、忘れられたくない。


次のクリップ。


無理しないで。


その下の本音。


僕のことも、少しだけ考えてほしい。


次のクリップ。


返事は急がなくていい。


その下の本音。


本当は、早く返事が欲しい。


僕は一つずつ見ていく。


責めない。


否定しない。


ただ、表の言葉と裏の本音を分けていく。


リノが静かに言った。


「それ、ノイズ除去?」


「たぶん」


僕の手元に白い光が生まれる。


マウスカーソルの形をした、小さな刃。


未返信編集。


でも今回は、敵を切るためじゃない。


自分の中の音を整えるため。


僕はタイムライン上の黒いノイズを一つずつ削っていく。


相手を責めたい気持ち。


自分を責める気持ち。


期待しすぎる気持ち。


全部を美談にしたい気持ち。


消すのではない。


音量を下げる。


見えないように隠すのではない。


邪魔にならない場所へ置く。


すると、タイムラインの中央に、一本の短い映像が残った。


そこには、三十日前の夜の僕がいた。


街灯の下で、震えながらユイに言葉を伝えている。


好きです。


付き合ってください。


その声は、やっぱり弱くて、小さくて、頼りなかった。


でも、嘘ではなかった。


僕はその映像を見て、初めて少しだけ思った。


下手だった。


でも、ちゃんと本気だった。


影の瀬名さんが言った。


『で、これは完成か?』


僕は画面を見つめた。


完成。


その言葉が怖い。


完成と言えば、それ以上言い訳できない。


でも、いつまでも未完成のまま置いておけば、僕はずっとそこに戻ってしまう。


僕は息を吸った。


「完成じゃない」


リノがこちらを見る。


影の瀬名さんも、黙っている。


僕は続けた。


「でも、一区切りにはできる」


その瞬間、タイムラインの終わりに白い線が引かれた。


ラフカット。


完璧な完成ではない。


でも、今の段階で一度区切るための形。


僕の恋も、まだ完成じゃない。


ユイの返事はまだ読んでいない。


気持ちも消えていない。


でも、一区切りにはできる。


今日を始めるために。


影の瀬名さんは、少しだけ笑ったように見えた。


『それでいい。初稿は出さないと、次の修正も来ない』


その言葉と同時に、編集室が白くほどけていく。


モニターも、机も、椅子も、影の瀬名さんも、光の粒になって消えた。


僕たちはまた、返信塔の階段に立っていた。


リノが僕を見る。


「今の、いいね」


「何が」


「完成じゃない。でも一区切り」


「勢いで出ただけ」


「そればっかり」


リノは少し笑った。


でも、その笑いはすぐに消える。


階段の上から、誰かの泣き声が聞こえた。


小さな女の子の声。


いや、違う。


声は幼いけれど、泣いているのは大人かもしれない。


リノの表情が硬くなる。


「次が来る」


「次?」


「塔は、上に行くほど個人的になる」


「個人的って」


「見たくないものほど、具体的に出てくる」


階段の先に、扉が現れた。


白い扉。


そこに、古い手書きの文字でこう書かれていた。


未送信室。


扉の下から、白い光が漏れている。


そして、その光の中に、小さな声が混ざっていた。


――送ればよかった。


――言えばよかった。


――消さなきゃよかった。


――でも、送れなかった。


僕はリノを見る。


リノは、唇を引き結んでいた。


「ここ、知ってるのか」


「知ってる」


「リノの場所?」


彼女は答えなかった。


ただ、刃を握る手が震えていた。


扉の向こうで、また声がする。


ごめん。


まだ、待ってる。


でも、私も進む。


それは、さっき僕がリノの未送信に足した言葉だった。


リノは小さく息を吐く。


「……ほんと、余計なことしてくれたね」


「後悔してる?」


「少し」


「少しなんだ」


「うん。少しだけ」


リノは扉に手をかけた。


でも、すぐには開けなかった。


「ハル」


「何」


「中で何を見ても、全部助けようとしないで」


「約束はできない」


「そこは嘘でも約束してよ」


「嘘は弱いんだろ」


リノは少しだけ笑った。


「覚えてるじゃん」


「まあね」


彼女は深く息を吸った。


そして、白い扉を開けた。


中から、眩しいほどの光が溢れた。


そこは、部屋ではなかった。


無数の未送信メッセージが、雪のように降る場所だった。


白い空間の中に、机が一つ。


椅子が一つ。


そして椅子には、リノによく似た少女が座っていた。


今より少し幼いリノ。


彼女はスマホを握りしめ、画面に文字を打っては消している。


何度も。


何度も。


その背後には、送られなかった言葉たちが山のように積もっていた。


ごめん。


怒ってないよ。


まだ待ってる。


もう待たない。


嘘。やっぱり待ってる。


会いたい。


会いたかった。


どうして来なかったの。


何かあったの。


私、何かした?


リノは、その少女から目をそらした。


「……最悪」


僕は何も言えなかった。


この部屋は、リノの中の奥にある場所だ。


僕が軽々しく踏み込んでいい場所じゃない。


でも、扉はもう開いている。


少女のリノが、ゆっくりとこちらを見た。


その目は、今のリノと同じだった。


優しくて、寂しくて、どこか諦めている目。


少女は言った。


「送っても、よかったのかな」


リノの肩が震えた。


今のリノは答えない。


だから、少女は僕を見た。


「ねえ」


声が、白い部屋に静かに響く。


「重いって思われても、送ってよかったのかな」


その問いは、リノの問いだった。


そして、僕の問いでもあった。


僕は、答えられなかった。


送ってよかった。


簡単にそう言うのは違う気がした。


送らなくてよかった。


それも違う気がした。


言葉には、送った後の責任がある。


でも、送らなかった言葉にも、残り続ける重さがある。


リノが小さく言った。


「やめて」


少女のリノは、今のリノを見る。


「どうして?」


「もう終わったことだから」


「終わってないよ」


少女はスマホを握りしめる。


「だって、まだここにある」


未送信の言葉たちが、一斉に浮かび上がる。


会いたい。


どうして。


待ってる。


待ってた。


今も。


今も。


今も。


リノの足元に、黒いインクが滲む。


僕は一歩前に出ようとした。


その時、リノが僕の腕を掴んだ。


「来ないで」


その声は、弱かった。


「これは、私のだから」


僕は足を止めた。


リノは震えながらも、自分で前に出た。


少女のリノと向き合う。


「送っても、よかったのかな」


少女がもう一度聞く。


リノは、長い沈黙のあとで答えた。


「わからない」


少女の目が揺れる。


リノは続ける。


「送ってたら、何か変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。もっと傷ついたかもしれない。少しだけ楽になったかもしれない」


一つ一つの言葉が、白い部屋に落ちていく。


「でも、今の私は、送らなかった自分をずっと責めてた」


未送信の山が、少しだけ崩れる。


「重いと思われたくなくて、いい子でいたくて、相手を責めたくなくて、何も言わなかった」


リノの声が震える。


「でも本当は、言いたかった」


少女のリノが、目を見開く。


リノは泣いていた。


でも、逃げなかった。


「会いたかった。来てほしかった。どうしてって聞きたかった。私、何かした?って聞きたかった。まだ待ってるって、言いたかった」


未送信の言葉たちが、ゆっくりと光り始める。


「言わなかったことを、優しさにしたかった。でも違った。私はただ、嫌われるのが怖かった」


少女のリノの頬にも、涙が落ちる。


今のリノは、自分の過去に手を伸ばした。


「ごめんね」


少女が首を振る。


「何に謝ってるの」


「あなたに」


リノは、少女の自分を抱きしめた。


「ずっと、黙らせててごめん」


その瞬間、未送信の山が白い光になって弾けた。


送られなかった言葉たちが、雪みたいに部屋中へ舞う。


でもそれは、さっきまでの重い雪ではなかった。


春の終わりに降る、すぐに溶ける雪みたいだった。


少女のリノは、今のリノの腕の中で少しだけ笑った。


「じゃあ、今からでも送る?」


リノは目を閉じた。


長い沈黙。


やがて、首を横に振る。


「送らない」


少女のリノが不思議そうに見る。


リノは言った。


「でも、なかったことにもしない」


その言葉と同時に、少女の手の中のスマホが光になった。


画面に残っていた未送信の文章が、形を変える。


ごめん。


まだ、待ってる。


でも、私も進む。


その最後に、新しい一文が加わった。


あなたに届かなくても、私には届いた。


リノの光の刃が、形を変えた。


細い刃ではなく、白い羽根のような剣。


彼女はそれを握りしめ、ゆっくりと息を吐いた。


白い部屋が崩れていく。


少女のリノは、最後に僕を見た。


「ねえ」


「何」


「あなたも、ちゃんと自分に届く言葉を言ってね」


そう言って、彼女は光の中へ溶けた。



気づくと、僕たちは返信塔の階段に戻っていた。


リノはしばらく黙っていた。


僕も何も言わなかった。


言葉をかけたかった。


でも、今は軽い慰めを置く場面じゃない気がした。


だから、ただ隣にいた。


リノは目元を袖で乱暴に拭った。


「見た?」


「見た」


「最低」


「今日だけで何回目だろ」


「最低記録更新中」


「ごめん」


「……でも」


リノは小さく息を吐いた。


「ありがとう」


その言葉は、通知音よりずっと静かだった。


でも、ちゃんと届いた。


僕は頷いた。


「うん」


リノは白い羽根のような剣を見つめる。


「変わった」


「綺麗だな」


「似合わない?」


「いや、似合う」


「即答されると、それはそれで困る」


少しだけ、二人で笑う。


その時だった。


階段の上から、拍手が聞こえた。


ゆっくりと。


一回。


二回。


三回。


未練王が、上の踊り場に立っていた。


「美しいね」


その声に、空気が凍る。


「送られなかった言葉を、自分に届ける。実に美しい」


リノが剣を構える。


未練王は、胸の古いスマホを撫でた。


「だが、それは自己満足だ」


リノの表情が固まる。


「届かなければ意味がない。相手に届かなければ、返事は来ない。返事が来なければ、関係は完成しない」


その言葉が、塔の壁に反響する。


届かなければ意味がない。


相手に届かなければ意味がない。


返事が来なければ完成しない。


僕の胸も痛んだ。


未練王は僕を見る。


「少年。君も同じだ。自分で区切ったつもりでも、彼女の返事を読まなければ、君の恋は完成しない」


「完成しなくてもいい」


口から出た言葉に、自分でも驚いた。


未練王が静かにこちらを見る。


僕は続けた。


「今はまだ、完成しなくていい。一区切りでいい」


「未完成のまま進むのか」


「そうだよ」


声は震えていた。


でも、言えた。


「未完成のままでも、今日を始めていい」


未練王の影が、少しだけ濃くなる。


「それは逃げだ」


「かもしれない」


「答えを読まない言い訳だ」


「それも少しある」


リノがちらりと僕を見る。


僕は苦笑した。


「でも、全部じゃない」


返信塔の上部から、またユイの名前が光る。


白乃ユイ。


ハルくん、


この前のことなんだけど――


ごめ――


その先は、まだ出ない。


未練王は腕を広げる。


「では登るがいい。未完成のまま、どこまで進めるか見せてもらおう」


階段が震える。


塔の内部が大きく形を変え始めた。


螺旋階段がほどけ、一本の長い廊下になる。


その廊下の先には、光る扉があった。


扉には、こう書かれている。


最終返信室。


リノが息を呑む。


「早すぎる」


「何が」


「普通、まだ辿り着けない。塔が焦ってる」


「焦ってる?」


「あなたが読まないから。私が少し進んだから。未練王が、まとめて終わらせに来てる」


未練王の声が廊下の奥から響く。


「最終返信室で待っている」


扉の向こうから、無数の通知音が鳴る。


ピコン。


ピコン。


ピコン。


その音の中に、確かにユイの名前を呼ぶような響きがあった。


僕は手を握る。


怖い。


まだ怖い。


でも、今は一人じゃない。


横には、白い羽根の剣を握ったリノがいる。


彼女もまだ震えている。


でも、立っている。


僕も立つ。


「行こう」


僕が言うと、リノは小さく頷いた。


「うん」


僕たちは、最終返信室へ続く廊下を歩き出した。


壁には、これまで出会った言葉が流れていた。


待つのは希望。


長く待ちすぎると、希望は呪いになる。


待つなら、歩きながら待つ。


完成じゃない。でも一区切り。


あなたに届かなくても、私には届いた。


その言葉たちを背に、僕は前へ進む。


まだ、ユイの返事は読んでいない。


まだ、僕の恋は完成していない。


でも、不思議と足は止まらなかった。


未完成のままでも、人は歩ける。


それを確かめるために、僕たちは扉の前に立った。


最終返信室。


その向こうに、きっと答えがある。


そして多分、答えよりも怖いものがある。


僕はリノを見る。


リノも僕を見る。


二人で頷く。


扉に手をかけた。


その瞬間、中から未練王の声がした。


「では、読もうか。君たちが捨てられなかった最後の言葉を」


扉が、音もなく開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ