第5話 未練王
画面の文字が、ゆっくりと増えていく。
ハルくん、
この前のことなんだけど――
その先が表示される前に、僕は息を止めていた。
読めば、終わる。
読めば、始まる。
どちらにしても、僕が三十日間立ち止まっていた場所に、何かしらの線が引かれる。
そう思った瞬間、指先が冷たくなった。
読みたい。
読みたくない。
見たい。
見たくない。
欲しかった答えが目の前にあるはずなのに、身体が動かなかった。
リノが僕の腕を掴んでいる。
その手は細いのに、驚くほど強かった。
「見ないで」
リノの声は震えていた。
さっきまで保留蛇の前でも冷静だった彼女が、今ははっきり怯えている。
「ここで読んだら駄目」
「本物かもしれないんだろ」
自分の声が、思っていたより低く響いた。
「だったら、読ませてくれよ」
「今のあなたは、まだそれを読めない」
「なんでリノが決めるんだよ」
言った瞬間、自分でもきつい言い方だと思った。
でも止まらなかった。
目の前にあるのは、三十日間欲しかったものだ。
眠れない夜も、仕事中にスマホを見そうになった瞬間も、食べ物の味がしなかった夜も、全部この一文に繋がっていた。
それを、読めないと言われる。
そんなの、耐えられなかった。
リノは黙った。
僕の腕を掴む力だけが、少し強くなる。
その沈黙の向こうから、未練王の声がした。
「読ませてあげればいい」
低く、穏やかな声だった。
まるで、長い夜の中で何度も同じ痛みを抱きしめてきた人の声。
未練王は、返信塔の扉の前に立っていた。
黒いコートの裾が、風もないのに静かに揺れている。
顔は影に隠れていて、表情は見えない。
ただ、胸に埋め込まれた古いスマホの画面だけが、青白く光っていた。
最後の送信。
七年前。
未読。
その文字を見た瞬間、理由もなく胸が痛んだ。
七年。
三十日で壊れそうになっていた僕には、想像もできない長さだった。
未練王は言う。
「少年は、ずっと待っていたのだろう。ならば読む権利がある」
リノが刃を構える。
「あなたは黙って」
「相変わらず乱暴だね、リノ」
未練王が、初めて彼女の名を呼んだ。
僕はリノを見た。
リノの顔から、血の気が引いている。
「知り合いなのか」
そう聞くと、リノは答えなかった。
代わりに、未練王がゆっくりと首を傾ける。
「知り合い、というほど軽いものではないよ」
リノの刃が、わずかに震える。
「やめて」
「彼に話していないのか」
「やめてって言ってる」
未練王は、優しく笑ったように見えた。
顔は影に隠れているのに、なぜかそうわかった。
「君もまた、待っている側だったことを」
リノの表情が歪んだ。
僕は、何も言えなかった。
リノは、僕を導く側だと思っていた。
この世界に詳しくて、未読獣や保留蛇と戦えて、僕に痛い言葉を投げてくる強い人だと思っていた。
でも彼女も、待っていた。
ずっと。
そして、たぶん今も。
未練王はゆっくりと歩き出す。
一歩踏み出すたびに、地面に古い通知音が落ちる。
ピコン。
ピコン。
ピコン。
それは新しい通知ではない。
過去の通知が、何度も再生されている音だった。
「待つことを弱さだと思う者は多い」
未練王は言った。
「忘れろ、進め、切り替えろ。そう言う者たちは簡単だ。自分が待っていないから、そう言える」
その言葉に、僕の胸が反応した。
忘れろ。
進め。
切り替えろ。
何度も自分に言い聞かせた言葉だった。
でも、言い聞かせるほど、苦しくなった。
好きなまま進むことは、そんなに簡単じゃない。
未練王は僕を見た。
「君はまだ、彼女を想っている」
僕は答えられなかった。
「それは恥じることではない。誰かを待てるほど想えることは、美しい」
美しい。
その言葉は、僕が一番欲しかった許しに似ていた。
待っている自分は情けない。
執着している自分は重い。
返事を欲しがる自分はみっともない。
そう思っていた。
でも、もし待つことが美しいのなら。
この三十日間は、少し救われる気がした。
リノが叫ぶ。
「違う!」
声が鋭く夜を裂いた。
「その人の言葉を聞いちゃ駄目! 未練を綺麗なものに見せるのが未練王の力だから!」
未練王はリノを見る。
「綺麗なものだろう」
「違う」
「君もそう思っていたはずだ」
リノの刃が、さらに震えた。
未練王は続ける。
「返事が来るまで待つ。たとえ何年でも。たとえ相手が忘れていても。たとえ世界が前に進んでも、自分だけはその想いを捨てない。それの何が悪い」
その声は、怒りではなかった。
祈りに近かった。
だから余計に、怖かった。
未練王の背後で、返信塔の画面が光る。
ハルくん、
この前のことなんだけど――
文章は、また途中で止まっている。
続きを読ませる気があるのか、ないのか。
まるで、僕を試しているみたいだった。
未練王が言う。
「ここにいればいい」
「ここに?」
「そうだ。返信塔の中なら、君は永遠に彼女の返事を待てる。苦しみは消えない。だが、希望も消えない」
それは、保留蛇の言葉に似ていた。
でも、もっと甘かった。
保留蛇は僕を待合室に座らせようとした。
未練王は、待つことそのものを肯定してくる。
それは責められるより、ずっと危険だった。
未練王は胸のスマホに手を当てる。
「私は七年待っている」
画面の日付が、少しだけ明るくなる。
「最後に送った言葉は、たった一文だった」
彼の声が、わずかに変わった。
今までの王の声ではなく、一人の男の声になった。
「また、明日」
その言葉だけで、周囲の空気が沈んだ。
また、明日。
何気ない言葉。
誰でも使う言葉。
約束と呼ぶには軽すぎる言葉。
でも、それが最後になったら。
それは、呪いになる。
未練王は言った。
「明日は来なかった」
リノが息を呑む。
僕も、動けなかった。
「彼女は消えた。理由も、行き先も、何も告げずに。私のメッセージは既読にもならなかった。未読のまま、七年が過ぎた」
胸のスマホ画面に、トークルームが映る。
そこには確かに、一文だけが残っていた。
また、明日。
その横に、小さな未読の文字。
七年間、変わらない未読。
未練王は僕を見た。
「君は三十日で、自分を情けないと思っているのか」
何も言えなかった。
「待て。待ち続けろ。想いを捨てるな。返事が来ないからといって、その想いの価値まで消えるわけではない」
その言葉は、正しかった。
少なくとも、半分は。
返事が来ないからといって、好きだった気持ちが無価値になるわけじゃない。
待った時間が全部無駄になるわけじゃない。
それは、僕も信じたかった。
でも。
未練王の足元には、影が広がっている。
その影の中には、無数の人が座っていた。
返信塔の中にいた人たち。
病院の待合室。
駅のベンチ。
ファミレスの席。
会社の会議室。
みんな、スマホを握ったまま動かない。
未練王の言葉に包まれて、待つことを美しいと思い込んでいる人たち。
美しいのに、動けない。
その姿を見て、僕の胸がざわついた。
「ハル」
リノが言った。
「待つことは悪くない。でも、あの人は待つことしか残ってない」
未練王が静かに笑う。
「残っているのではない。守っているのだ」
「違う」
リノの声が震える。
「あなたは守ってるんじゃない。終わるのが怖いだけ」
その瞬間、未練王の影が揺れた。
初めて、彼の空気が変わった。
「リノ」
声が低くなる。
「君がそれを言うのか」
リノは唇を噛む。
未練王は歩みを止め、彼女を見た。
「君こそ、待つことをやめられなかった」
「……」
「返事が来ないとわかっていても、毎晩この塔を見上げていた」
「黙って」
「彼が戻ってくるはずがないと知っていても、通知音が鳴るたびに振り返った」
「黙って!」
リノが刃を振るった。
光の斬撃が未練王へ飛ぶ。
しかし、未練王は避けなかった。
斬撃は彼の身体に届く前に、空中で止まる。
そこに一枚の画面が現れた。
画面には、リノの名前が表示されていた。
そして、その下に、未送信のメッセージ。
ごめん。
まだ、待ってる。
リノの顔が凍った。
光の斬撃が砕ける。
「リノ!」
僕が叫ぶと、リノは後ずさった。
目を見開いたまま、画面を見ている。
「違う」
小さな声だった。
「それは、違う」
未練王は優しく言う。
「違わない。君の言葉だ。送られなかっただけで」
リノの身体が震える。
黒いインクが、彼女の足元から伸び始めた。
僕は駆け寄ろうとした。
その瞬間、返信塔の画面がまた光る。
ハルくん、
この前のことなんだけど――
次の文字が表示される。
ごめ――
僕の足が止まった。
ごめ。
その先は、まだ表示されない。
ごめん、なのか。
ごめんね、待たせて、なのか。
ごめんなさい、なのか。
たった二文字で、身体が固まる。
未練王が笑った。
「ほら」
声が近い。
いつの間にか、未練王は僕のすぐ前にいた。
「君はまだ、その二文字で止まれる」
息が詰まった。
その通りだった。
ハルくん。
この前のことなんだけど。
ごめ――
それだけで、僕の全身は動かなくなる。
未練王は言った。
「それほど大切な想いなら、捨てる必要などない」
「捨てるつもりは、ない」
僕は絞り出すように言った。
「でも、ここにいるわけにもいかない」
「なぜ」
「現実に戻らないといけないから」
「現実に何がある」
未練王の声が、少しだけ鋭くなる。
「返事の来ない朝。眠れない夜。曖昧な関係。誰にも褒められない仕事。何者にもなれない自分。そんな場所へ戻ってどうする」
言葉が、胸に刺さる。
「ここなら待てる。ここなら想いを守れる。ここなら、彼女の名前が消えない」
返信塔の画面に、白乃ユイの名前がまた大きく表示される。
白乃ユイ。
僕はその名前から目を離せない。
消したくない。
確かに、消したくなかった。
ユイを好きだった自分を、なかったことにしたくない。
でも。
リノが膝をついている。
黒いインクが、彼女の足を覆っている。
未送信の画面が彼女の周りを漂っている。
ごめん。
まだ、待ってる。
その文字に、リノは飲まれかけていた。
僕は歯を食いしばる。
僕が今見るべきなのは、ユイの返信じゃない。
リノだ。
いま目の前で、待つことに飲まれかけている人がいる。
僕は一歩踏み出した。
未練王が目の前に立ちはだかる。
「行くのか」
「行く」
「彼女の返事が出るかもしれない」
「出るかもしれない」
「それでも見ないのか」
僕は一瞬だけ、返信塔を見た。
ごめ――
文字はそこで止まっている。
たぶん、この塔は僕が見るまで続きを出さない。
僕を永遠にそこへ釘付けにするために。
僕は息を吸った。
「今は見ない」
未練王の影が揺れた。
「怖いからか」
「怖いよ」
僕は認めた。
「でも、それだけじゃない」
手の中に、白い光が戻ってくる。
再生線。
今、ここを示す線。
「今の僕が見るべきなのは、あの画面じゃない」
僕は未練王の横を抜けようとする。
黒い影が足元から伸びる。
待て。
その影が言っている。
返事を待て。
ここにいろ。
その想いを捨てるな。
僕は白い線を振った。
「カット」
影が切れる。
完全には消えない。
でも、足は動いた。
未練王の声が背中に刺さる。
「君は後悔する」
「するかもしれない」
「読めばよかったと、必ず思う」
「思うかもしれない」
「それでも?」
僕はリノの方へ走りながら答えた。
「それでも、今はこっちだ」
リノの前に膝をつく。
彼女は、未送信の画面を見つめていた。
ごめん。
まだ、待ってる。
唇が震えている。
「リノ」
呼んでも反応がない。
「リノ!」
彼女の肩を掴む。
リノはようやく、僕を見た。
目が濡れていた。
「……見ないで」
「見るよ」
「見ないでって言ってる」
「ごめん。見る」
リノは笑おうとして、失敗したような顔をした。
「最低」
「さっき僕のこと散々見ただろ」
「それは、あなたが危なかったから」
「今はリノが危ない」
その言葉に、リノの表情が崩れた。
「私は、大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「大丈夫なの」
「大丈夫な人は、そんな顔しない」
黒いインクが、リノの腰まで上がってくる。
未練王が背後で言う。
「触れるな。彼女の未返信は深い。君ごと沈むぞ」
僕は振り返らなかった。
リノの周りに漂う未送信メッセージに触れる。
指先が焼けるように熱い。
次の瞬間、映像が流れ込んできた。
◇
雨の日だった。
今より少し幼いリノが、駅の改札前に立っている。
スマホを握っている。
画面には、短いメッセージ。
待ってる。
送信済み。
既読はついていない。
リノは何度も時計を見る。
十八時。
十八時半。
十九時。
人が通り過ぎる。
傘がぶつかる。
電車が到着する。
改札から人が流れてくる。
でも、彼は来ない。
画面には、何も増えない。
リノは笑っている。
大丈夫。
たぶん遅れているだけ。
忙しいだけ。
何かあっただけ。
そういう顔で笑っている。
けれど、時間が進むたびに、その笑顔は少しずつ薄くなっていく。
二十時。
二十一時。
二十二時。
駅の照明が寂しくなる。
店のシャッターが閉まる。
リノはまだ立っている。
スマホを握ったまま。
画面に、未送信の文章が打たれている。
何かあった?
でも、送らない。
重いと思われたくない。
責めていると思われたくない。
面倒な子だと思われたくない。
消す。
また打つ。
ごめん、まだ待ってる。
消す。
雨が強くなる。
駅前の水たまりに、リノの顔が映る。
泣きそうなのに、泣いていない顔。
その夜、彼は来なかった。
そして、次の日も。
その次の日も。
メッセージは未読のまま。
やがてリノは、返事を待つ人たちを助ける側になった。
未返信世界で、刃を握った。
誰かに言った。
待つだけの人間は、いつか怪物になる。
それは、誰かに向けた言葉じゃなかった。
自分に言い聞かせていた言葉だった。
◇
映像が途切れた。
僕は息を荒くしていた。
リノは僕を見ている。
怒っているようにも、泣いているようにも見えた。
「……見たんだ」
「見た」
「最低」
「ごめん」
「謝ればいいと思ってる?」
「思ってない」
「じゃあ何で見たの」
「助けたかった」
言った瞬間、リノの拳が止まった。
「……そういうの、ずるい」
リノの声が震える。
「助けたいって言われたら、怒れないじゃん」
黒いインクが、少しだけ引いた。
僕は、リノの未送信メッセージを見た。
ごめん。
まだ、待ってる。
その言葉が、彼女を縛っている。
「リノ」
「何」
「まだ待っててもいいと思う」
リノの目が揺れた。
「……は?」
「待つなって言ったら、たぶん嘘になる。僕もまだ待ってるし」
未練王の気配が、背後で濃くなる。
でも、僕は続けた。
「でも、待ってる自分を罰しなくていい」
リノは何も言わない。
「リノはずっと、自分に怒ってたんだと思う。待ってしまう自分を、弱いって思ってた。だから人を助ける側に回って、もう自分は違うって思いたかった」
自分で言いながら、僕自身にも刺さっていた。
僕も同じだ。
非表示にしたことで、もう進める人間になった気がしていた。
保留蛇を倒して、少し強くなった気がしていた。
でも、ユイの名前が表示されただけで止まった。
強くなったふりなんて、すぐ剥がれる。
「でもさ」
僕は、リノの未送信メッセージに手を伸ばした。
「待ってしまうことと、止まり続けることは違う」
白い光が生まれる。
今回は、僕の刃だけじゃない。
リノの未送信の言葉が、細い光の糸になる。
「ごめん。まだ、待ってる」
その文字が、少しずつ変わっていく。
「ごめん」は消えない。
でも、その後ろに、別の言葉が足されていく。
ごめん。
まだ、待ってる。
でも、私も進む。
リノの目から、涙が落ちた。
黒いインクが大きく剥がれる。
未練王の声が低く響く。
「余計なことを」
リノの手に、再び光の刃が戻った。
彼女は震える手でそれを握る。
「……ハル」
「何」
「あとで殴る」
「今じゃないんだ」
「今は、あいつを殴る」
リノは立ち上がった。
目元にはまだ涙が残っている。
でも、その刃はさっきより強く光っていた。
未練王は、初めて明確に怒りを見せた。
影が広がる。
返信塔が鳴動する。
ハルくん、
この前のことなんだけど――
ごめ――
画面が再び光る。
未練王は僕に言う。
「最後の機会だ。読め。彼女の答えを」
僕は画面を見た。
見たかった。
今でも見たい。
でも、さっきより少しだけわかっていた。
僕はユイの答えを欲しがっている。
それは本当だ。
でも、その答えを読む前に、自分の足で立っていなければならない。
読んだ瞬間、全部が崩れるような状態では駄目だ。
OKでも、NGでも。
僕が僕でいられる状態で、読まなければならない。
だから、今じゃない。
僕は白い再生線を握る。
「読まない」
未練王の影が、膨れ上がる。
「なぜだ」
「今読むと、僕の答えじゃなくなるから」
「彼女の答えこそ、君が求めていたものだろう」
「そうだよ」
僕は認めた。
「でも、それだけじゃ駄目なんだ」
リノが僕の横に並ぶ。
二人の光が、夜の中で細く重なる。
僕は未練王を見る。
「彼女が何を言っても、僕が僕の今日を始められなきゃ意味がない」
未練王は黙った。
「好きな人の返事で救われたいって思うのは、たぶん普通だ。でも、それだけに全部を預けたら、返事が来てもまた誰かの答えを探すことになる」
胸が痛い。
これは、まだ完全に自分のものになった言葉じゃない。
でも、今の僕が必死に掴んだ答えだった。
「僕は、彼女の返事を読みたい。でも、その前に、自分で立ちたい」
返信塔の画面が、大きく揺れた。
ごめ――
その文字が、黒くにじむ。
未練王が、低く笑った。
「ならば証明してみせろ」
塔の扉が、完全に開く。
中は闇だった。
ただ、その奥から無数の通知音が聞こえる。
ピコン。
ピコン。
ピコン。
未練王は両腕を広げた。
「この塔の最上階には、すべての未返信がある。君の彼女の返事も、リノの待ち人の答えも、私が待ち続けた明日も」
リノが息を呑む。
未練王は続ける。
「進むというなら、登ってこい。その上でなお、読まずにいられるなら認めよう」
「罠だよ」
リノが言った。
「絶対に罠」
「だろうね」
僕は答えた。
でも、足は塔の方を向いていた。
逃げても、きっとまた同じ場所に戻される。
ユイの返事。
リノの未送信。
未練王の七年。
全部、この塔の中にある。
僕たちはそこへ行かなければならない。
読まないために。
自分で選ぶために。
未練王は、闇の中へ消えていく。
最後に、彼の声だけが残った。
「待つことを捨てた者に、愛を語る資格はない」
その言葉が、塔の中から何度も反響する。
リノは刃を握り直した。
「腹立つ」
「うん」
「めちゃくちゃ腹立つ」
「うん」
「でも、ちょっとだけ刺さる」
「わかる」
二人で、塔の入口を見上げた。
巨大なスマホの集合体。
人の未練と希望と後悔でできた塔。
その最上階に、答えがある。
でも、僕たちが探しているのは、きっと答えそのものじゃない。
答えを前にしても、自分を失わない方法だ。
僕は一歩、塔の中へ踏み出した。
リノも続く。
背後で、既読のない街が静かに沈んでいく。
見上げると、塔の内部には無数の階段が渦のように続いていた。
一段ごとに、誰かのメッセージが刻まれている。
待ってる。
ごめん。
まだ好き。
返事ください。
忘れたい。
忘れたくない。
その言葉を踏みしめながら、僕たちは上へ向かう。
ポケットの中で、存在しないはずのスマホが震えた気がした。
でも、僕は見なかった。
今はまだ。
読まない。
読まないまま、進む。
それが、この夜に僕が選んだ、最初の小さな答えだった。




