12.甘い味も苦い味も、あなたがくれるなら私は飲み干したい
「山田せんぱーい」
手を大きく振ったら、先輩がぱっと私を見つけて、柔らかく微笑んだ。
十年前から私の好きな笑顔だ。
ゴールデンウイーク最終日の今日は、大きなターミナル駅で山田先輩と待ち合わせをしていた。
大きな駅だから駅ビルも広くて、その一角にある書店の本店へ行く約束をしていた。
「お待たせ」
「今来たところです」
デートみたいなことを言ってしまって、つい頬がゆるんだ。
小走りでやってきた先輩は、七分丈の細身のボトムにパーカー、その上から薄手のテーラードジャケットを羽織っていた。
前にセンスないって言ってなかったっけ。
最高だけど。
「山田先輩は今日もかっこいいですねえ」
「秋谷以外に言われたことないって」
「そうでしたね。私と先輩の秘密でした」
「その服、衣替えで出してきたんだ?」
「あ、そうです、そうです」
私は薄手のデニムのワイドパンツに、ひらひらした半袖のブラウス。足元はせっかくだし、ヒール高めのサンダルにしてきた。
「どうでしょうか?」
「かわいいです」
「……すみません、言わせてしまいましたね」
誘い受けみたいなことをしてしまって、ちょっと反省。
山田先輩はきょとんとしてから苦笑して、少し身をかがめて私を覗き込んだ。
待って、近い近い。ほんの少し首を伸ばしたらキスできそうな距離。
「俺、慣れてないから言わないだけで、秋谷のことは十年前からかわいいって思ってるよ」
「えっ」
「行こうか」
先輩は目を細めて、ゆっくり歩き出した。
相変わらず先輩が過剰供給で、私はまったく付いていけていない。
***
ゴールデンウイーク最終日だからか、本屋はとても混んでいた。
参考書を選ぶ学生カップル、絵本を選ぶ親子、二冊の雑誌で迷うお姉さんたち。
私はと言えば、山田先輩が資格試験用の参考書を探すというので、のんびり後をついて行っていた。
背表紙を見ても私にはさっぱり分からないけど、先輩が真剣な顔で棚を見上げる横顔が最高だから、まったく問題ない。
「悪いね、付きあわせちゃって」
「いえ、あと三時間くらい大丈夫です」
「……なにが?」
「写真撮っていいですか?」
そう聞くと、先輩はふっと息を吐いて笑った。
「聞いたらダメって言われるんだから、勝手に撮ればいいのに」
「えっ、いいんですか?」
「ダメだよ」
先輩はしれっと言って、また視線を本棚に戻してしまった。
結局いいのかダメなのか、わかんなかった……。
少しして先輩が買う参考書を決めたというので、また店内をうろうろする。
旅行のガイドブックの本棚で先輩が足を止めた。
「秋谷、旅行好き?」
「好きですよ。最近行けてませんけど、友達と年に一度は出かけてます。前回は金沢に行きました。美術館が良かったです」
「ふうん」
山田先輩は頷いて金沢のガイドブックを手に取った。
「先輩は旅行します?」
「全然。忙しいし、機会もないし」
「……私が誘ったら、一緒に行ってくれます?」
ついそう言うと、先輩はガイドブックをめくっていた手を止めて、私を見て何度か瞬きした。
手元のガイドブックを本棚に戻して、眉間にしわを寄せる。
「悪い、言わせた」
「ふふ、いいじゃないですか。言わせてくださいよ」
つい噴き出したら、先輩はますます眉間のしわを深くした。
「先輩とお出かけするの、今日で二回目ですけどすごく楽しいから、もっとたくさんご一緒したいです」
「……俺もだよ」
そっぽを向いて、ささやくような声で先輩が言った。
私は手を伸ばして金沢の隣に並ぶ富山のガイドブックを手に取った。
「私の”人生で一度は行きたい場所”ランキング第三位に黒部ダムが入ってるんですけど、先輩、行ったことありますか?」
「いや、ない。でもたしかに一度くらい見てみたいかも」
先輩が私の手にあったガイドブックを、さっき選んだ参考書の上に重ねた。
次の棚に移動しようと並んで踵を返した途端、どたどたと足音がして、後ろから思いっきり突き飛ばされた。
「ひゃわっ」
「秋谷!」
先輩が焦った顔で手を伸ばして、抱きとめてくれた。
ぶつかってきたおじさんが
「本屋はいちゃつく場所じゃねえぞ!」
と怒鳴って走り去る。
「せ、せんぱい」
「ごめん、秋谷。気づくのが遅れて……怪我は?」
先輩が眉を下げて、私を覗き込んだ。
眼鏡の向こうの切れ長の瞳が細められていて、口はへの字で、肩が強く抱き寄せられていた。
「全然、大丈夫です……」
「そう? ったく、なんなんだよ……」
先輩は顔をしかめて、おじさんが走り去った方を睨んだ。
私はと言えば、ぽかんとしたまま先輩を見上げることしかできない。
「秋谷?」
「……先輩、かっこいいですねえ」
「は? 何言ってんだよ」
先輩は眉を下げたまま笑って、肩を掴んでいた手を離した。
そのまま床に散らばった参考書とガイドブックを拾う。拾った後も、なぜか山田先輩は立ち上がらなかった。
「先輩?」
かがもうとしたら、先輩が低い声を出した。
「秋谷のサンダル、かわいいんだけどさ。でも、こういうの履いてるんなら教えて」
「え?」
「俺、こういうの気づいてあげられないからさ。ゆっくり歩いたり、よろけないように支えたりするの、教えてもらわないとできないんだ」
低い声で言って、先輩がゆっくりと顔を上げた。
眉が下がっていて、何かを堪えるように私を見つめていた。
周りにはたくさん人がいるはずなのに、喧騒がやけに遠くに聞こえる。
私は腰を落として先輩と視線を揃えた。
「ありがとうございます、先輩。じゃあ、転ばないように、一緒にゆっくり歩いてもらえますか?」
「……うん。ごめん、また言わせた」
先輩は泣き出しそうに唇を噛んだ。
私が体を起こすと、先輩も立ち上がった。
「先輩、駅地下のレストラン街に行きましょうよ」
「うん」
「富山のガイドブック、一緒に見たいです」
「秋谷」
「はい」
「俺、秋谷とだったらどこでもいいよ」
弱々しい笑みを浮かべた先輩に、私はできるだけ明るく答えた。
「私も、山田先輩とならどこでもいいです」
***
駅の地下にある洋食レストランで、私は先輩と向かい合っていた。
まだ夕方の早い時間だから、店内の人影はまばらだ。
「ともかく、黒部ダムですよ」
「じゃあそこは最優先で」
「あとブラックラーメン食べたいです」
「いいけど、これどうやって黒くしてるんだ?」
先輩はガイドブックをめくりながらビールを飲んでいて、私はナポリタンを巻きながら言いたい放題、思いつくことをしゃべっていた。
「あー、あと富山と言えばチューリップですね」
「じゃあ、行くなら春かな」
「……うちの会社に春休みという単語が存在しないのですが」
「うちもだよ。あーでもこの川のクルーズいいなあ」
「わ、素敵です」
先輩が目を伏せてガイドブックをめくるのを眺めた。
長いまつげが目元に影を作っていて、わずかに持ち上がった口の端にはビールの泡がついている。いいな。そこに住みたい。
「働き出してから忙しすぎて、旅行なんて考えもしなかった」
「先輩、転職前からお忙しいんですか?」
「うん。忙しい上に交通費とか勤怠管理がちゃらんぽらんで、給料がバカ低かったから転職した」
先輩はため息をついて、グラスの底に残ったビールを一気に飲み干した。
手元には冷めかけたグラタンが半分くらい残っている。
「悪いね、仕事の話になると愚痴ばかりで」
私はナポリタンを食べながら、首をゆっくり横に振った。
「全然大丈夫です。先輩も大人なんだなあってどきどきするので」
「大人かなあ」
先輩はガイドブックを置いて、かわりにスプーンを手に取る。
骨ばった大きな手がスプーンを持っているだけで見とれてしまって、単純だ。よく言えばコスパがいいのかも。
グラタンを全部食べてから、先輩はテーブルに置かれたタブレットでメニューを見ていた。
先輩はビールをグラス一杯飲んだだけのはずなのに、頬が赤いし涙目になっている。
「大人になった気がしないんだ。学生の頃は、秋谷にちゃんとした先輩だと思われたくてかっこつけてたけど、最近かっこをつけることすらできてないし」
不貞腐れたように言って、先輩はタブレットを私に向けた。私の前の皿はとっくに空になっていた。
「デザート、食べる?」
「はい、じゃあプリン食べます」
「俺は……んー、俺もプリンにしよう」
先輩はプリンを二つ頼んで、タブレットを戻した。
店員がテーブルの上の食器を片づけてくれたから、私はそのままになっていたガイドブックを広げた。
「先輩、富山に行ったら寒ブリ食べたいです」
「それなら冬かな」
「地酒も飲みたいです」
「秋谷、結構酒好きだよな」
「私、忙しいのでお給料をため込んでるんですよ」
先輩がきょとんとして、顔を上げた。
だからじっと先輩を見て、笑った。
「私たち大人になったから、旅行先で豪遊しましょう。高校生のときじゃできなかったことを、一緒にしましょうよ、先輩」
店員がプリンを持ってきたから、追加でビールを頼んだ。
すぐに運ばれてきたから、私はプリンにビールを注ぐ。
「大人なので、こんな食べ方もできます。苦い、そして甘い……先輩も一口どうぞ」
ビールでひたひたのプリンをスプーンですくって差し出した。
先輩はまたちょっと泣きそうな顔で口を開ける。
「……たしかに美味いけどさ」
「ね。私、先輩のことかっこ悪いって思ったことないです。十年前に図書室で出会ってから今まで、一度もないです」
そう言うと、先輩は眉間にしわを寄せて唇を噛んだ。
少ししてから、ふっと表情を緩めた。
「秋谷」
「はあい」
先輩は自分のプリンを食べながら、私を見つめた。
「責任とれよ」
「え、なんのですか?」
答えは教えてもらえなかったけど、そう言う先輩の眼差しはとろけそうなくらいに熱かった。
一位が雲仙温泉、二位は綾の照葉大吊橋、四位は宗谷岬。
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