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7話 練り物とぽけ

——白い廊下に、もう一人


病院の廊下は、静かすぎて息が詰まりそうだった。


集中治療室の前。

白い壁にもたれたまま、かまぼこは長いこと口を開けずにいた。

医師の説明はまだない。

なてゃんぬの意識は戻らない。

白い扉の向こうで、何が起きているのかもわからない。


少し離れた椅子には、はるが座っている。

さっきまでのやり取りの熱はもう声には出ていないのに、その場に残った空気だけはまだ棘だらけだった。


そのとき、廊下の向こうから速い足音が響いた。


ひとりの男が、迷いなくこちらへ歩いてくる。

呼吸は少し荒く、顔色も悪い。

急いで来たのが一目でわかった。


男は集中治療室の表示を見た瞬間、顔を強張らせた。

そしてそのまま、かまぼことはるの前で立ち止まる。


「……なてゃんぬさんの関係者ですか」


低い声だった。

だが落ち着いているわけではない。

押し殺した焦りが、その短い一言ににじんでいた。


かまぼこは一瞬、返事に詰まる。

すると横から、はるが先に答えた。


「元カレ」


乾いた声だった。


男の視線が、ゆっくりとかまぼこに向く。

その目に浮かんだものを見た瞬間、かまぼこは嫌な予感を覚えた。

驚きではない。

確認が取れたときの顔だった。


「……あんたが、かまぼこか」

「あなたは」

かまぼこが訊く。


男は目を逸らさないまま答える。


「ぽけ。

なてゃんぬの彼氏です」


その場の空気が、はっきり変わった。


かまぼこの喉が詰まる。

はるも椅子に座ったまま、わずかに目を上げた。

彼氏。

その言葉だけで、見えていたはずの構図がまた違う形にねじれた。


ぽけは白い扉を一度見て、それから改めてかまぼこに向き直る。


「最近、様子がおかしかったんだよ」

「……」

「前に進もうとしてるはずなのに、急に立ち止まるようになってた。

何かあるのか聞いても、ちゃんと話さなかった」


ぽけの声は静かだった。

けれど、その静けさの奥にあるものは重かった。


「でも、今日わかった」

一歩、ぽけが近づく。

「原因、あんただろ」


かまぼこの眉がわずかに動く。

反射的に否定しようとして、言葉が出なかった。

会ったこと。

揺れたこと。

断ち切れなかったこと。

どれも事実だったからだ。


「……誤解だ」

ようやく出た声は、ひどく薄かった。


ぽけの口元がわずかに歪む。


「誤解?」

「俺は、別にそんなつもりで——」

「そんなつもりじゃなかった、か」


その言い方に、かまぼこの中でも何かがざらついた。


ぽけは続ける。


「なてゃんぬ、前に進こうとしてたよ」

「……」

「忘れられないものがあるのは知ってた。でも、それでも今を選ぼうとしてた」

一瞬だけ、ぽけの視線が扉のほうへ流れる。

「なのに、あんたがまた近づいた」


かまぼこは拳を握る。


「近づいたとか、そういう言い方は」

「違うのか」

「……」

「違うなら、なんでここにいる」


その一言は重かった。


元カレの立場で、この病院にいること。

後悔しているような顔をしていること。

その全部が、今のぽけには神経を逆撫でするものにしか見えないのだとわかった。


「なてゃんぬがこうなったの、あんたが誑かしたせいだろ」


今度は、はっきりそう言われた。


はるがわずかに口元を上げる。

皮肉なのか、疲れなのか、もうよくわからない表情だった。


かまぼこの顔色が変わる。


「誑かしたわけじゃない」

「じゃあ何した」

「それは……」

「終わった相手なら終わった相手らしくしろよ」


ぽけの声が少し強くなる。

「中途半端に会って、揺らして、気持ちだけ掻き回して、それで“そんなつもりじゃなかった”?」


かまぼこの奥歯が軋む。

図星だからではない。

図星だけで済ませたくない苛立ちがあった。


「おまえに、全部知ったみたいに言われる筋合いない」

「知ってることはある」

ぽけが即座に返す。

「今、なてゃんぬがあの中にいて、あんたが外に立ってる理由くらいはな」


その一言で、かまぼこの胸の奥が熱くなる。


「……じゃあおまえは何なんだよ」

ぽけの目が細くなる。

「彼氏だったなら、なんでこんなことになる前に支えられなかったんだよ」


はるが、今度ははっきりと顔を上げた。


ぽけの表情から、温度が消える。


「本気で言ってるのか」

「彼氏なんだろ」

かまぼこも引かない。

「様子がおかしかったって気づいてたなら、止められただろ」

「それ、俺のせいにするのか?」

「してねえよ。ただ——」

「してるだろ」


ぽけが一歩、さらに近づく。

距離が一気に詰まる。


「自分が蒸し返しておいて、止められなかった俺に責任振るのかよ」

「蒸し返したつもりはない」

「でも蒸し返したんだよ!」


その声が、白い廊下に鋭く響いた。


ナースステーションのほうで、誰かが顔を上げる。

けれど、二人とももう気にしていなかった。


ぽけは低く、噛みしめるように続ける。


「なてゃんぬは、ちゃんと終わらせようとしてた」

「……」

「完全じゃなくても、今を選ぼうとしてた」

「だったら——」

「だったら何だよ」


ぽけの目が、怒りで揺れる。

「だったら、元カレがしゃしゃり出てきていい理由になるのかよ」


かまぼこの呼吸が荒くなる。


「しゃしゃり出たんじゃない」

「じゃあ何だ」

「俺だって、こんなことになるなんて——」

「思ってなかった?」

ぽけが言葉を奪う。

「都合いいな。ほんとに都合いい」


かまぼこの中で何かが切れかける。


「さっきから勝手なことばっか言ってんじゃねえよ」

「勝手なのはどっちだ」

「俺だけが全部悪いみたいに」

「少なくとも一番無責任だったのはあんただろ」


空気が張りつめる。


はるは黙ったまま、そのやり取りを見ていた。

どちらの味方でもないような、でもどちらにも冷たい目だった。


ぽけが、ひときわ低い声で言う。


「なてゃんぬがあんたを忘れきれなかったの、あんたが優しかったからじゃない」

「……」

「中途半端だったからだ」


その一言が、かまぼこの胸のど真ん中に刺さる。


否定したかった。

でもできなかった。

それがさらに、怒りを煽る。


「……黙れよ」

「黙らない」

ぽけは一歩も退かない。

「なてゃんぬがこうなった理由から、あんたが逃げるな」

「逃げてねえよ」

「逃げてるだろ。後悔してる顔だけして」


かまぼこの目つきが変わる。


「なんだよ、それ」

「元カレ面して病院に来て、傷ついた顔して、責任だけ曖昧にしてるのが一番気持ち悪いって言ってんだよ」


空気が凍った。


かまぼこが一歩、前へ出る。

ぽけも動かない。

もうどちらも引けない場所まで来ていた。


はるが小さく息をのむ。

さすがにまずいと思ったのか、視線だけが二人のあいだを行き来する。


かまぼこの声は、今度は逆に静かだった。


「……おまえ」

ぽけも同じ温度で返す。

「何だよ」


白い廊下のまんなかで、二人の視線がぶつかる。

その瞬間、さっきまで言葉で保っていたものが、別の形に変わりかけていた。


そして、かまぼこが次の一言を吐こうとした、そのとき...

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