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6話 違和感の正体

病院の廊下は、嫌になるほど白かった。


白い壁。

白い床。

白い灯り。

どこを見ても感情の入り込む隙なんてないみたいで、それがかえって残酷だった。

集中治療室の前で、かまぼこは長いこと立ち尽くしていた。

さっき医師から聞かされた言葉が、まだ頭の中でうまく意味にならない。


命はつながっている。だが予断は許さない。


その一文だけが、胸の奥で重く沈んでいる。


なてゃんぬがあの白い向こうにいる。

意識は戻らない。

会うこともできない。

話すこともできない。

謝ることすらできない。


かまぼこはゆっくり息を吐いて、壁際の椅子へ視線を向けた。

そこに、はるが座っていた。


さっきからほとんど動いていない。

泣き腫らした顔でもなければ、取り乱している様子もない。

ただ、膝の上で組んだ手をじっと見つめている。

その静けさが、逆に異様だった。


「……はる」


名前を呼ぶと、はるは少しだけ間を置いて顔を上げた。

目は赤い。

でも、その赤さより先に、かまぼこは違和感を覚えた。

さっき現場で見た怯えや混乱とは別のものが、その目の奥に沈んでいたからだ。


「医者、なんて?」

はるが先に訊いた。


かまぼこは数秒答えられなかった。

言葉にすると、本当にそうなってしまう気がした。


「……まだわからないって」

「ふうん」


その返事の薄さに、かまぼこは眉をひそめる。

はるはそれに気づいているはずなのに、特に取り繕おうともしなかった。


「重いんだって?」

「……うん」

「そう」


またそれだけだった。


かまぼこは椅子の前まで歩み寄る。

立ったまま、はるを見下ろす。

白い光の下で見ると、彼女の顔は妙に冷たく見えた。


「はる、何があったの」

「話したでしょ」

「そういう意味じゃない」


少しだけ声が強くなる。

はるはようやく視線を逸らした。


「口論になったの」

「それで階段から落ちた?」

「……うん」

「それだけ?」


はるは返事をしない。

沈黙が落ちる。

かまぼこの中で、焦りと苛立ちが混ざっていく。


「おまえ、さっきから」

喉がひどく乾いていた。

それでも言わずにいられなかった。

「なんでそんなに平気そうなんだよ」


はるは、そこで初めて小さく笑った。


笑った、というより。

口元だけがわずかに動いた。

疲れきった人間が、感情を通さずに表情だけ作ったみたいな笑いだった。


「平気に見えるんだ」

「見えるよ」

「へえ」


その声には、少しだけ棘があった。

かまぼこの胸の奥がざわつく。


「私、泣き叫んだほうがよかった?」

「そういう話じゃない」

「じゃあどういう話?」


はるはゆっくり立ち上がった。

身長差のせいで見上げる形になるのに、不思議と圧されるのはかまぼこのほうだった。


「なてゃんぬさんがかわいそうで、私が全部悪くて、そういう空気にしたいの?」

「誰もそんなこと言ってない」

「言ってるようなもんでしょ」


かまぼこは思わず息をのむ。

はるの声は大きくない。

けれど、その静かさの底に、ねじれた熱があった。


「自業自得じゃん」


その一言が、白い廊下にひどくはっきり響いた。


かまぼこの表情が止まる。

はるはそれを見て、今度ははっきりと笑った。

乾いていて、少しも楽しそうじゃない笑みだった。


「何、その顔」

「……おまえ」

「だってそうでしょ」


はるは腕を組むでもなく、ただ立ったまま淡々と続ける。


「人の彼氏に連絡して、会って、好きだとか言って、終わった恋を勝手に蒸し返して。

それでこうなったら、急に悲劇のヒロインみたいに扱われるの?」

「はる!」

「何。違う?」


かまぼこの声が強くなる。

でもはるは止まらなかった。


「私からしたら、あんなやつ、こうなって当然って思ってもおかしくないでしょ」

「やめろ」

「なんで? きれいごとじゃん」

「やめろって言ってるだろ」


その低い声に、一瞬だけ空気が凍る。

近くのナースステーションのほうで、誰かがこちらを気にした気配がした。


けれどはるは、今さら周囲なんかどうでもよさそうだった。

むしろ、その制止が気に障ったみたいに目を細める。


「そうやって怒るんだ」

「……」

「私には怒るんだね」


かまぼこは言葉を失う。

はるはその反応を見て、胸の奥の黒いものを確かめるみたいに続けた。


「なてゃんぬさんが落ちたって聞いたとき、顔色変わったよね」

「当たり前だろ」

「当たり前なんだ」

「人が死ぬかもしれないんだぞ」

「私だって人だよ」


その言葉は、叫びではなかった。

でも、たぶん今夜いちばん痛かった。


はるは一歩だけ近づく。

声はやっぱり静かだった。


「私が壊れたときは、そこまで必死じゃなかったくせに」

「……はる」

「裏切られて、ぐちゃぐちゃにされて、それでもちゃんとしようとしてた私より、あの人が階段から落ちたことのほうが大事なんだ」


かまぼこはすぐには否定できなかった。

今この瞬間、なてゃんぬの容態が最優先で頭を占めているのは事実だったからだ。

そのわずかな間が、はるの顔をさらに冷たくする。


「ほらね」

「違う」

「何が違うの」

「そういう比較じゃない」

「でも比べてるのはずっとそっちでしょ」


その言葉に、かまぼこは喉を詰まらせる。

はるは傷ついている。

壊れている。

それはわかる。

でも今の彼女の言葉には、傷ついた側の悲鳴だけじゃなく、明確な悪意が混じっていた。


「……こうなって当然って、本気で思ってるのか」

かまぼこが訊く。


はるは少しだけ首を傾げた。

そして、考えるまでもないみたいに答えた。


「少なくとも、かわいそうとは思えない」


その一言で、かまぼこの中で何かが冷えた。

怒りとも違う。

失望に近かった。

いや、もっと手前の、理解が切れる感覚だった。


「おまえ」

声が掠れる。

「そこまで言うのか」

「言うよ」


はるはまっすぐ見返した。

その目の奥には涙の気配がまだ残っているのに、口にしているのは刃物みたいな言葉ばかりだった。


「だって、ほんとにそう思ってるから」

「……」

「私が不幸になったぶん、誰かも不幸になればいいって、思ったよ」

「はる」

「実際、落ちた瞬間、少しだけほっとしたし」


かまぼこは凍りついた。


はる自身も、その言葉を口にした瞬間、ほんの少しだけ目を揺らした。

でももう引き返さなかった。

たぶん、引き返せなかった。


「やっぱりって思った」

乾いた笑み。

「これで終わるかもって」


白い廊下の空気が一気に冷えた気がした。

かまぼこは何も言えない。

言ってしまえば壊れる何かがあると、本能でわかったからだ。


はるはそんなかまぼこの沈黙を見て、ふっと目を伏せる。


「最低でしょ」

自嘲みたいに言う。

「でも、そう思ったの。

あんなやつ、こうなって当然だって。

私のこと壊したんだから、同じ目に遭えばいいって」


そこまで言い切ると、ようやく声が少しだけ震えた。

怒っているのか、泣きそうなのか、自分でもわからないみたいな震えだった。


「なのに」

はるは小さく息を吸う。

「本当にそうなったら、全然気持ちよくない」


その一言だけは、やけに正直だった。


「むしろ最悪」

視線は床に落ちる。

「気分なんか全然晴れないし、楽にもならないし、かまぼこにはこんな目で見られるし」

そこで初めて、はるは少しだけ笑うのをやめた。

「……でも、それでも、かわいそうとはまだ思えない」


かまぼこはゆっくり息を吐いた。

胸の中が重たく沈む。

はるの壊れ方は、自分が想像していたよりひどかった。

傷ついた結果、泣いて崩れるんじゃなく。

感情の一部が腐って、他人の不幸に寄りかかるようになっている。


そのことが、たまらなく苦しかった。


「はる」

「なに」

「今のおまえ、ほんとにおかしいよ」


はるは一瞬だけ、目を見開いた。

そして次の瞬間には、嘲るように口元を歪める。


「誰のせいだと思ってるの?」

「……」

「私、最初からこんなんじゃなかったよ」


それは事実だった。

だからこそ、かまぼこは何も返せなかった。


はるは疲れたように壁へ寄りかかる。

さっきまでの棘だらけの態度が、急に重さだけを残して崩れていく。


「でもさ」

ぽつりと言う。

「壊れたあとで、きれいなままでいろって無理じゃない?」


その問いには、正解がなかった。


廊下の向こうで、ドアの開く音がした。

二人とも反射的にそちらを見る。

医師ではない。

でも、その一瞬で張りつめた空気がまた現実に引き戻される。


なてゃんぬは、まだ生死の境にいる。

その事実は、はるの悪意とも、かまぼこの後悔とも無関係に、冷たくそこにある。


かまぼこはゆっくり視線を戻した。

はるはもう彼を見ていなかった。

どこか遠くを見ている。

自分で吐いた言葉の残骸の中に、ひとり取り残されたみたいに。


白い病院の廊下で、

かまぼこはようやく理解する。

誰かを傷つけた代償は、ただ関係を壊すだけじゃない。

人間の中身そのものまで変えてしまうことがあるのだと。


そしてはるは、その壊れた場所からまだ戻れないまま、

なてゃんぬの生死を待つ白い夜の中で、

自分がもう“ただの被害者”ではいられなくなったことだけを、静かに噛みしめていた。

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