5話 邂逅、壊れゆく練り物
なてゃんぬから連絡が来たのは、日付が変わる少し前だった。
話したい
一度だけでいいから
はるはしばらく、その短い文を無表情で見つめていた。
返す理由なんてない。
会う必要もない。
そんなことはわかっていた。
けれど、画面を閉じても、胸の奥に残るものは消えなかった。
怒り。
悔しさ。
裏切られた痛み。
そして、どうしても終わらせきれない惨めさ。
なてゃんぬは、かまぼこの過去だった。
でもただの過去じゃない。
一度終わったはずなのに、また自分たちのあいだに入り込んできた過去。
はるがどれだけ「今」を守ろうとしても、ふとした瞬間にその名前が影みたいに差してくる。
そのことが、ずっと苦しかった。
数分迷ったあと、はるは短く返した。
10分だけ
待ち合わせ場所は、駅裏の古い雑居ビルの脇にある外階段の前だった。
深夜に近い時間で、人通りは少ない。
閉まった店の看板だけがぼんやり光っていて、空気は少し湿っていた。
春の終わりの夜なのに、妙に冷える。
なてゃんぬは先に来ていた。
薄いコートを羽織って、踊り場のあたりに立っている。
街灯の白い光が横顔を照らして、ひどく静かに見えた。
「……来たんだ」
なてゃんぬが言う。
その言い方が、はるには癇に障った。
「呼んだの、そっちでしょ」
声は思ったより低かった。
怒鳴ってはいない。
けれど、そこにやわらかさはひとつもなかった。
なてゃんぬは少し黙って、それから小さくうなずく。
「うん。ごめん」
「謝るために呼んだの?」
「それもある」
「それ“も”?」
はるは笑った。
でも、少しも楽しそうじゃなかった。
なてゃんぬが視線を落とす。
その仕草が弱々しく見えて、はるは余計に苛立った。
被害者みたいな顔をしないでほしい。
苦しいのは自分だけじゃないなんて、わかっている。
でもだからといって、同じ場所に立てるわけじゃない。
「何が言いたいの」
「……ちゃんと話したかった」
「今さら?」
「今さらでも」
「私には今さらなんだよ」
その一言で、空気がぴんと張る。
なてゃんぬは何か言い返しかけて、やめた。
その沈黙が、はるの神経を逆撫でした。
言いたいことがあるなら言えばいい。
傷ついた顔だけして、察してもらえると思わないでほしい。
そんなふうに思う自分が、もうかなり追い詰められていると、はる自身もわかっていた。
「かまぼこと会ったんでしょ」
はるが言う。
「……うん」
「まだ好きなんでしょ」
なてゃんぬは少しだけ息を止めた。
それから、逃げるように否定しなかった。
「好きだよ」
その答えは、まっすぐすぎた。
ごまかしてほしかった。
嘘でもいいから、「違う」と言ってほしかった。
でもなてゃんぬは、そうしなかった。
はるの胸の奥で、何かが冷たく切れる。
「じゃあ何?」
「……」
「好きだから会ったの?」
「そういう言い方、やめて」
「どういう言い方ならいいの?」
はるは一歩、近づく。
なてゃんぬはとっさに半歩下がる。
二人のあいだにあるのは、対話なんかじゃなかった。
もうずっと前から、言葉に見せかけた痛みの投げ合いだった。
「私は、奪うつもりだったわけじゃない」
なてゃんぬが言う。
「でも結果的にそうなったでしょ」
「全部私だけのせいじゃない」
「そうだね」
はるはすぐにうなずいた。
その素直さが、逆になてゃんぬを戸惑わせる。
「かまぼこも悪いよ。すごく悪い。最低だと思う」
「……」
「でも、それであなたがマシになるわけじゃない」
なてゃんぬの唇がきつく結ばれる。
その顔を見て、はるは少しだけ満たされるのを感じた。
傷ついている。
ちゃんと刺さっている。
そのことに、ほんの少しだけ安堵してしまう。
最低だと思った。
でも止められなかった。
「私ね」
はるは続ける。
「ずっと比べてたんだよ。会ったこともないうちから」
「……」
「元カノってだけで、知らない時間がいっぱいあるってだけで、勝手に負けてる気がしてた」
なてゃんぬがわずかに眉を寄せる。
はるはそこでやめればよかった。
でも、もう止まれなかった。
「それで実際に戻ってこられたら、どうしろっていうの」
「戻ろうとしたわけじゃ」
「じゃあなんで好きだなんて言うの!」
夜気が震える。
遠くで誰かがこちらを見た気配がした。
それでも二人とも、もう周囲を気にする余裕なんてなかった。
なてゃんぬの目にも、とうとう感情があらわに浮かぶ。
「好きだったからだよ!」
その声は震えていた。
「終わったつもりでいたのに、会ったらだめだったの! ちゃんと終わってなかったの!」
「だからって」
「そっちにわかるわけないでしょ!」
その言葉にはるは息をのむ。
わかるわけない。
その通りだった。
わからない。
でも、わからないからって傷つかないわけじゃない。
「じゃあ私のことは?」
はるの声は、今度は低く沈んだ。
「私がどんな気持ちだったか、考えたことある?」
「……あるよ」
「嘘」
なてゃんぬが何か言い返すより早く、はるはまた一歩近づいた。
踊り場は狭かった。
逃げ場がない。
なてゃんぬは手すりのほうへ寄るしかなかった。
「私、ずっと怖かったんだよ」
はるの目は笑っていなかった。
「かまぼこの“今”より、あなたとの“昔”のほうが強いんじゃないかって」
「はるちゃん」
「その呼び方やめて」
ぴしゃりと言い切る。
なてゃんぬが黙る。
その沈黙すら、今のはるには苛立ちの材料になった。
「何も言えないの?」
「違う、そうじゃなくて……少し落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ」
はるは詰め寄る。
なてゃんぬは反射的に後ろへ下がる。
手すりが背に当たる。
そのとき、はるの中に黒い感情がよぎった。
もっと困ればいい。
もっと追い詰められればいい。
ほんの一瞬だった。
自分でも信じたくないくらい、醜い感情だった。
でも確かにあった。
「私は壊れたのに」
はるの声が掠れる。
「なんであなたは、そんな顔で立ってられるの」
なてゃんぬが息をのんで、わずかに身を引く。
その一歩が、足元を狂わせた。
ヒールの先が階段の縁を外す。
体がぶれる。
なてゃんぬの目が大きく見開かれる。
「あ——」
はるは咄嗟に手を伸ばした。
でも遅かった。
指先が、服の端にかすっただけで届かない。
次の瞬間、なてゃんぬの体が階段の下へ崩れた。
一段、二段では止まらない。
鈍い音が連続して響いて、最後に重たい衝突音がした。
すべてが止まった。
はるはその場で動けなかった。
息もできない。
喉が閉じて、声も出ない。
階段の下を見下ろすことしかできない。
なてゃんぬは、動かなかった。
そのとき。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
これで終わる。
そんな感情が、胸の底をかすめた。
もう比べなくていいかもしれない。
もうかまぼこの心を奪い返されることはないかもしれない。
その発想が、稲妻みたいに頭の中を走る。
直後に、はるは全身が冷えきるのを感じた。
何を思った?
今、自分は何を思った?
「……ちが」
声が出る。
遅れて恐怖が押し寄せる。
違う。そんなつもりじゃない。
こうしたかったわけじゃない。
傷つけたかったわけでもない。
それでも、“落ちた瞬間に少しだけ安心した自分”だけは、もう消せなかった。
はるは階段を駆け下りる。
足がもつれそうになりながら、なてゃんぬのそばにしゃがみこむ。
反応が薄い。
呼吸はある。
でもおかしい。軽くない。
そのことだけはすぐにわかった。
「なてゃんぬさん」
返事はない。
「ねえ、起きて……」
通行人が集まり始める。
誰かが救急車を呼ぶ。
別の誰かが警察にも連絡していた。
はるはその場で、震える手を見つめながら何度もつぶやく。
「わざとじゃない」
「違うの」
「私、そんなつもりじゃ……」
それは本当だった。
でも、完全に無垢でもないと、自分がいちばんよくわかっていた。
赤色灯が近づく。
なてゃんぬは搬送される。
事情を聞かれ、はるはまともに受け答えもできない。
頭の中では、さっきの一瞬が何度も再生されていた。
これで終わる。
あの感情が、耳鳴りみたいにこびりついて離れない。
やがて、かまぼこに連絡を入れる。
何を書けばいいのかわからず、震える指で短く打つ。
ごめん
なてゃんぬさんが階段から落ちた
救急車で運ばれた
送ったあとで、はるはようやく泣いた。
けれどそれは、純粋な後悔だけの涙じゃなかった。
怖かった。
なてゃんぬのことも。
これからのことも。
そして何より、“少しだけ喜んでしまった自分”のことが。
その夜、はるは初めて知る。
人は傷つけられるだけでは壊れない。
傷ついた先で、自分の中にある醜さを見てしまったとき、ほんとうに壊れるのだと。




