4話 裏切り
——裏切りの春
なてゃんぬの“暴走”は、最初はほんの小さな綻びだった。
「ごめん、ちょっとだけ声が聞きたくなった」
夜遅くに届いたその一文を、かまぼこは何度も見返した。
返すべきじゃないと思った。
返したらだめだともわかっていた。
はるともう一度ちゃんと向き合うと決めたばかりだったから。
それでも、指は止まらなかった。
どうしたの
たったそれだけ。
それだけのはずだった。
けれど、終わったはずの関係というものは、ときどき今の恋よりもたちが悪い。
終わっているからこそ、少しぐらいならいい気がしてしまう。
過去だから、もう燃え上がらないと勝手に思い込んでしまう。
なてゃんぬからの返事は早かった。
会いたい
会って、ちゃんと終わらせたい
その言葉は、ずるかった。
未練ではなく整理のためだと言われれば、拒絶するほうが冷たく見えてしまう。
かまぼこは長いこと画面を見つめたあと、結局、会う約束をしてしまった。
そのことを、はるには言えなかった。
言えば止められると思った。
いや、本当は違う。
止められたくなかったのだ。
自分の中にまだ残っている揺れを、自分で確かめてしまいたかった。
約束の日、なてゃんぬは思っていたより静かだった。
人目の少ないカフェの隅で向かい合った彼女は、以前のように挑発的な笑みを浮かべることもなく、ただ少し疲れた顔でかまぼこを見ていた。
「来てくれたんだ」
「終わらせたいって言ってたから」
「……うん、そうだね」
けれど実際には、“終わらせる”ための時間にはならなかった。
昔の話をした。
うまくいかなかった理由。
言えなかったこと。
傷つけたこと。
本当はまだ謝りたかったこと。
話せば話すほど、過去は“過去”の輪郭を失っていった。
あの頃の痛みも、やさしさも、未熟さも、目の前にいるなてゃんぬの表情と重なって、生々しくよみがえってくる。
「私ね」
なてゃんぬはカップに視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「まだ、好きだよ」
かまぼこの呼吸が止まる。
その一言を、聞いてはいけなかった。
聞いた瞬間に、自分の中の何かが言い訳できなくなるとわかっていた。
それでも、耳はちゃんと拾ってしまった。
「言うつもりなかった」
なてゃんぬは苦く笑う。
「でも、かまぼこが目の前にいたら、もうだめだった」
「なてゃんぬ……」
「困らせたいわけじゃないよ。奪いたいって言ったら、たぶん最低だし」
そこでいったん言葉が切れる。
それから彼女は、泣きそうな顔で笑った。
「でも、奪いたいくらい好き」
その顔を見た瞬間、かまぼこは残酷なことに気づいてしまった。
自分は、もう前ほどなてゃんぬを愛してはいない。
でも、完全にどうでもいい過去にもできていない。
情なのか、未練なのか、責任感なのか、自分でも名前のつけられない感情がまだ残っている。
それが、いちばん醜かった。
会ったことを隠したまま、はるに会うたび、かまぼこは自分が二重になっていく気がした。
はるの前ではやさしい恋人でいたいのに、心の奥ではなてゃんぬの涙を反芻している。
なてゃんぬの前ではもう戻れないとわかっているのに、その痛みから目をそらせない。
はるはすぐに気づいた。
「……最近、また遠いね」
春の終わりの夕方、そう言ったはるの声は、前よりもずっと静かだった。
怒っているわけではない。
責めてもいない。
ただ、もう何かを察してしまった人の声だった。
「何かあった?」
「いや、別に」
「別に、じゃないよ」
はるはまっすぐにかまぼこを見た。
その視線から逃げた瞬間、自分はもう終わっているのだと思った。
「……なてゃんぬさんと、会った?」
胸の奥が冷たくなる。
どうしてわかったのか、なんてもう関係なかった。
隠したかった事実を、はるが口にしてしまった。そのこと自体が答えだった。
「会った」
かまぼこがそう認めると、はるは一度だけ目を閉じた。
傷つく準備をするみたいに。
「いつ?」
「少し前」
「なんで言ってくれなかったの」
「……言えなかった」
「言えなかったんじゃなくて、言わなかったんでしょ」
その通りだった。
はるの声は震えていたけれど、泣いてはいなかった。
泣かないことで、ぎりぎり自分を保っているように見えた。
「まだ好きなの?」
その問いに、かまぼこは答えられなかった。
“好き”と言い切るには違う。
でも“もう何もない”と言うには、自分の迷いが大きすぎた。
その沈黙は、どんな肯定よりも残酷だった。
はるの唇がわずかに震える。
「……そっか」
また、その言葉だった。
でも今度の“そっか”は、理解でも受容でもなかった。
心が壊れる音を、自分で聞かないための言葉だった。
「ごめん」
「謝らないで」
はるは首を振る。
「謝られると、まだ私が許す側みたいになるから嫌」
かまぼこは何も言えない。
はるは笑おうとして、失敗したような顔になる。
「私ね、強くないって言ったよね」
「……うん」
「だから、ちゃんと言ってって言ったのに」
その一言が、胸に深く刺さった。
かまぼこは、自分が“揺れた”のではなく、“選ばなかった”のだとようやく思い知る。
はるを選ぶと言いながら、なてゃんぬに会った。
会っただけじゃない。
その気持ちに引きずられ、はるに向き合う誠実さから目をそらした。
裏切りは、たぶんその瞬間から始まっていた。
「はる、俺……」
「もういい」
はるは小さく言った。
「続き聞いたら、もっと嫌いになりそうだから」
その“嫌い”という言葉が、かまぼこには何より堪えた。
はるは嫌いになんてなりきれない顔をしていたからだ。
本当はまだ好きなのに、好きなままだと壊れるから、無理やりそう言っているのがわかった。
「少し、離れたい」
はるはそう言って立ち上がる。
「考える時間ほしい」
「待って」
「待てないの、そっちでしょ」
静かな声だった。
でも、その静けさのぶんだけ、怒りより深い傷がにじんでいた。
はるが去ったあと、かまぼこはしばらく動けなかった。
追いかける資格がないと思った。
呼び止める言葉も、もう持っていなかった。
一方で、なてゃんぬはすべてを察していた。
「はるちゃんに、ばれた?」
数日後、連絡してきた彼女の声は、思ったより落ち着いていた。
かまぼこは答えず、沈黙した。
それだけで十分だったのだろう。
なてゃんぬは電話の向こうで、小さく息を吐いた。
「……ごめん」
「なてゃんぬのせいじゃない」
「半分くらいは私のせいだよ」
「違う。決めたのは俺だ」
それは本当だった。
なてゃんぬは暴走した。
忘れたふりも、終わったふりもやめて、本心をぶつけた。
でも、それを受け取って揺れ、隠し、結果としてはるを裏切ったのは、かまぼこ自身だった。
「最低だな、俺」
ぽつりと漏らすと、電話の向こうでなてゃんぬが苦しそうに笑った。
「そんな最低な人、好きなの、もっと最低だ」
その言葉は冗談みたいでいて、少しも軽くなかった。
春の終わりは、いつも少しだけ残酷だ。
始まりの季節だと思っていたのに、終わりも連れてくる。
やさしさのつもりで曖昧にしたこと。
傷つけたくないと言いながら、選ぶことを先延ばしにしたこと。
その全部が、誰かの心を確実に壊してしまう。
はるは、裏切られた。
なてゃんぬは、好きなまま壊れた。
そしてかまぼこは、どちらも失うかもしれない場所で、ようやく自分の弱さの代償を知る。
夜、ひとりになった部屋で、かまぼこは何度もスマホを手に取った。
はるに何か伝えたい。
でも、どんな言葉も薄っぺらく思えた。
好きだと言う資格が、まだ自分にあるのかわからなかった。
画面には、送れないままの短い文章が残る。
ごめん
ちゃんと失いたくないと思ってたのに
一番失うようなことをした
送信できないまま、文字だけが光っている。
恋は、好きなだけでは守れない。
迷った瞬間ではなく、迷いを隠した瞬間に壊れはじめる。
そのことを、かまぼこは遅すぎるほど遅く知った。
そしてその夜、
はるのいない静かな部屋で、
なてゃんぬの声の残響と、はるの傷ついた目を同時に抱えながら、
かまぼこは初めて、自分が本当に取り返しのつかないところまで来てしまったのだと知るのだった。




