3話 なてゃんぬ
——元カノ・なてゃんぬ
春は、何かを思い出させる季節だ。
忘れたつもりの声や、もう終わったはずの気持ちまで、やわらかな風に紛れてふいに胸へ戻ってくる。
はると少しだけすれ違って、それでもちゃんと手をつなぎ直したあとのことだった。
かまぼこは仕事帰りの駅前で、懐かしい名前を呼ばれた。
「……かまぼこ?」
足を止めて振り向いた瞬間、心臓が一拍だけ遅れる。
そこにいたのは、なてゃんぬだった。
別れてから、もうそれなりに時間は経っている。
もう会うこともないと思っていた。
思っていたのに、目の前の彼女はあの頃と変わらない、少し人を試すような、それでいて寂しさを隠すのがうまい笑みを浮かべていた。
「ひさしぶり」
「……ひさしぶり」
「元気そうじゃん」
「そっちも」
短いやりとりなのに、昔の空気がよみがえりそうになる。
気まずさというより、知りすぎていた相手を前にしたときの、説明できない沈黙だった。
なてゃんぬは、かまぼこの顔を少し覗き込むようにして笑った。
「なんか、大人っぽくなったね」
「それ、たぶん気のせい」
「ううん。前より、ちゃんと誰かを大事にしてる顔してる」
その言葉に、かまぼこの胸が小さく揺れた。
はるの顔が浮かぶ。
同時に、なてゃんぬと過ごした日々の輪郭まで、思い出の底から滲み出してくる。
楽しかったこともある。
苦しかったこともある。
好きだったから傷つけあった夜も、嫌いになれないまま離れた朝も、たしかにあった。
「今、好きな人いるんだ」
自分でも驚くほど自然に、かまぼこはそう言っていた。
なてゃんぬは一瞬だけ目を見開いて、それから「そっか」と笑った。
その笑い方が、少しだけきれいすぎた。
平気なふりをしていると、すぐにわかるくらいには、かまぼこは彼女を知っていた。
「大事なんだ?」
「うん」
「へえ」
その“へえ”の奥に、いくつもの感情が混じっている気がした。
責めるでもなく、怒るでもなく、ただ置いていかれたみたいな静かな響き。
かまぼこはそれ以上、何を言えばいいのかわからなくなる。
なてゃんぬが視線を外し、夕暮れの雑踏へ目を向けた。
「よかったじゃん。かまぼこ、昔は不器用すぎたし」
「……否定できない」
「私もだけどね」
その一言で、かつての終わり方が胸に刺さる。
あの頃の自分たちは、好きだけでどうにかなると思っていた。
でも実際は、好きだからこそ言えないことが増えて、気づけば互いの寂しさばかりを見つめていた。
「ねえ」
なてゃんぬが不意に言う。
「もし、あのときもう少しちゃんと話せてたら、違ったのかな」
春の風が吹いた。
その問いは、軽いようでいてずるかった。
かまぼこはすぐには答えられない。
違ったかもしれない。
でも、だからといって今を揺らしていい理由にはならない。
過去に答えを出し直すことはできても、未来の約束を壊していいことにはならない。
「わからない」
かまぼこは静かに言う。
「でも、今の俺は、その“もし”より、今の気持ちを大事にしたい」
なてゃんぬは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけまぶしそうに目を細めた。
「そっか」
また同じ言葉。
けれど今度は、さっきよりずっと小さかった。
その夜、はると会ったとき、かまぼこは迷った末に全部話した。
偶然なてゃんぬに会ったこと。
少し話したこと。
昔のことを思い出して、ほんの少し心が揺れたことまで。
話してしまえば、はるを傷つけるかもしれないと思った。
でも隠したままやさしくするほうが、もっと残酷な気がした。
カフェの窓際で、はるは静かに話を聞いていた。
途中で遮りもせず、責めもせず、ただかまぼこの言葉が終わるのを待っていた。
その時間が、かえって苦しかった。
「……ごめん」
最後にそう言うと、はるは少し俯いた。
グラスの表面を指でなぞりながら、しばらく黙っている。
「揺れたんだ」
その問いは責める声ではなかった。
だからこそ、かまぼこは逃げられなかった。
「少しだけ」
正直に答える。
はるは小さくうなずいた。
それから、思ったよりも穏やかな声で言った。
「そっか」
今日だけで、同じ言葉を何度聞いただろう。
でも、はるの“そっか”は、なてゃんぬのものとは違っていた。
理解しようとして飲み込んだ痛みの味がした。
「嫌だな、それ」
はるは笑わなかった。
「正直に言ってくれたのはうれしい。でも、嫌なものは嫌」
「うん」
「だって、今のかまぼこの隣にいるの、私でしょ」
「そうだよ」
「じゃあ、過去の誰かに心を引っぱられるの、平気なわけない」
かまぼこは言葉を失う。
その通りだった。
はるは大人ぶって許すふりをしなかった。
きれいごとで済ませもしなかった。
ちゃんと傷ついたと言ってくれた。
それが、ありがたかった。
「でも」
はるは視線を上げる。
「揺れたことより、そのあと私に話してくれたことのほうを信じたい」
かまぼこの胸が詰まる。
やさしさじゃない。
覚悟みたいな言葉だった。
「……はる」
「簡単に平気にはならないよ」
はるは少しだけ寂しそうに笑う。
「なてゃんぬさんは、かまぼこの過去なんでしょ。たぶん、私が知らないかまぼこをたくさん知ってる」
その声音は静かだったけれど、指先はわずかに震えていた。
「それって、ちょっとこわい」
かまぼこは、ようやく気づく。
自分が揺れたことばかりを考えていた。
でも、本当に向き合うべきだったのは、揺れた事実を受け取るはるの痛みのほうだった。
「こわがらせて、ごめん」
「……うん」
「でも、選ぶのはもう迷ってない」
はるが目を上げる。
かまぼこはまっすぐ彼女を見る。
「過去をなかったことにはできない。でも、今一緒にいたいのは、はるだよ」
はるはすぐには答えなかった。
けれど、長い沈黙のあと、小さく息をついて言う。
「そうやって、ちゃんと言って」
「うん」
「曖昧なのが一番苦しいから」
「うん」
「私、勝手に強くないから」
その一言が、胸に深く刺さった。
かまぼこはテーブルの下でそっと手を差し出す。
はるは少しためらってから、その手を握った。
いつもより弱い力だった。
だからこそ、失いたくないと思った。
一方で、なてゃんぬは帰り道にひとり、夜風の中を歩いていた。
かまぼこの「今の気持ちを大事にしたい」という言葉が、何度も胸の中で反響する。
遅かったのだとわかっている。
自分から手放したものだった。
あの頃の自分たちは幼くて、好きなのに壊してしまった。
だからもう、戻れない。
戻ってはいけない。
それでも、人はときどき願ってしまう。
もしも、を。
あのとき、を。
言えなかった言葉の続きを。
なてゃんぬは立ち止まり、春の夜空を見上げた。
泣くほどじゃない。
でも、笑えるほど軽くもない。
それが終わった恋の重さだった。
「……ほんと、遅いなあ」
誰に聞かせるでもなくつぶやいて、ひとりで笑う。
かまぼこが自分ではない誰かを大事にしている顔をしていたこと。
それが少し寂しくて、でも少しだけ救いでもあった。
ちゃんと前に進めているのだと知ってしまったから。
三人の気持ちは、きれいには重ならない。
誰かが悪いわけでもない。
ただ、過去と今とが同じ春に出会ってしまっただけだ。
それでも恋は、選ばれるだけでできているわけじゃない。
選んだあと、揺れながらも同じ人のほうへ戻っていくことで、少しずつ形になっていく。
はるは、かまぼこの今だった。
なてゃんぬは、忘れられない過去だった。
そしてかまぼこは、そのどちらにも誠実であろうとして、ようやく自分の弱さと向き合いはじめる。
春の夜は、やさしいぶんだけ残酷だ。
でも、残酷なぶんだけ本当の気持ちを照らしてしまう。
その光の中で、
かまぼこははるの手を取り、
なてゃんぬは手放したぬくもりを胸にしまう。
三角形の先で揺れていた想いは、
誰かひとりの勝ち負けではなく、
それぞれの痛みとして、静かに夜へ溶けていった。




