2話 すれ違う春、つなぎなおす手
春の夜は、思っていたより少しだけ冷える。
はるからの返信が遅いだけで、こんなふうに落ち着かなくなるなんて、少し前のかまぼこなら想像もしなかった。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
仕事が立て込んでいたはるは、その週ずっと忙しそうで、メッセージも短かった。
「ごめん、今日ばたばたしてる」
「あとで返すね」
それ自体は何もおかしくない。責める理由なんてひとつもない。
頭ではちゃんとわかっているのに、胸の奥だけが勝手にざわつく。
画面に並ぶ短い文字を見つめながら、かまぼこは小さく息を吐いた。
自分ばかりが浮かれていたのだろうか。
あの夜も、そのあとの帰り道も、全部特別に思っていたのは自分だけだったのかもしれない。
そんな考えがよぎるたび、すぐに打ち消したくなるのに、一度生まれた不安はなかなか消えてくれなかった。
その週末、ようやく会えたはるは、たしかに少し疲れて見えた。
いつもより薄い笑顔。少しだけ遅れる相づち。
それでも会えたことがうれしくて、かまぼこはできるだけ明るく振る舞おうとした。
「無理して来なくてもよかったのに」
そう言ったのは、本当に気遣ったからだった。
けれど、はるは一瞬だけ目を伏せて、静かに笑った。
「……来たらだめだった?」
その返しに、かまぼこは言葉を失う。
そんな意味で言ったんじゃない。
けれど、うまく否定するより先に、微妙な沈黙が落ちてしまった。
その数秒が、ひどく遠く感じた。
「違う、そうじゃなくて」
慌てて言い直した声は、思ったより硬かった。
はるは首を横に振って、無理に笑う。
「ううん、わかってる。ちょっと疲れてるだけ」
その“わかってる”が、かえって苦しかった。
本当はわかってなんかいないのかもしれない。
いや、自分のほうこそ、はるの疲れも不安も、ちゃんと見られていなかったのかもしれない。
帰り道、二人は並んで歩いていたのに、前より距離が遠く感じた。
手をつなごうと思えばつなげるはずなのに、そのきっかけが見つからない。
何かを言えば余計にこじれそうで、黙れば黙るほど空気が重くなる。
駅の明かりが見えてきたころ、はるがぽつりと言った。
「かまぼこ、最近ちょっとだけ、遠い」
心臓がひやりとした。
遠いと思っていたのは、自分のほうだったから。
なのに、はるも同じように感じていたなんて。
「俺が?」
「うん。やさしいし、ちゃんと気にしてくれてるのもわかる。けど……なんていうか」
はるは言葉を探すように視線を落とす。
「本音を隠してる感じがする」
かまぼこはすぐには答えられなかった。
図星だったからだ。
不安に思っているなんて言ったら、重いと思われる気がした。
寂しいなんて口にしたら、はるを困らせるだけだと思っていた。
だから平気なふりをしていた。
でもそのせいで、いちばん伝えたいことまで届かなくなっていた。
「……困らせたくなかった」
やっと出た声は、驚くほど弱かった。
はるが顔を上げる。
かまぼこは自分の足元を見つめたまま続けた。
「忙しいの、わかってたし。疲れてるのも。だから、寂しいとか言ったらだめだと思ってた」
「……」
「でも、ほんとはちょっと不安だった。俺ばっかり好きみたいに思えて。そんなわけないって、わかってるのに」
言い切ったあと、胸の奥が少し痛んだ。
情けないなと思う。
こんなことを言わせるために会ったんじゃないのに。
もっと楽しい時間にしたかったのに。
けれど、はるは笑わなかった。
困ったような顔もしなかった。
ただ、ひどくやさしい目でかまぼこを見ていた。
「そっか」
その一言が、やけにあたたかかった。
はるは小さく息をついて、少しだけ近づく。
「私も、不安だったよ」
「え」
「忙しくて余裕なくて、うまく返せなくて。かまぼこが優しいぶん、余計に申し訳なくなってた」
はるは少しだけ眉を下げて笑う。
「それで、ちゃんと好きって伝えられてない気がしてた」
春の夜風が、二人のあいだを静かに通り抜ける。
さっきまで冷たく感じていたのに、今は少しだけやわらかかった。
「すれ違ってたんだね」
かまぼこがそう言うと、はるはうなずく。
「うん。たぶん、お互いに、相手を困らせないようにして」
「その結果、勝手に不安になってた」
「そうみたい」
二人は同時に、少しだけ苦く笑った。
恋はうれしいことばかりじゃない。
近づいたからこそ、見えなくなるものもある。
大事にしたいと思うほど、余計なことを言えなくなる夜もある。
でも、こうして立ち止まって、言葉にできるなら。
完全に離れてしまう前に、手を伸ばせるなら。
それはまだ、終わりじゃない。
はるがそっと手を差し出した。
前みたいに、まっすぐじゃなくて、少しためらうような手つきだった。
かまぼこはその手を見て、胸がいっぱいになる。
自分たちは、今また選び直しているのだと思った。
ちゃんとわかりたいと、離れたくないと、もう一度。
そっと触れた指先は、少し冷えていた。
だから、握った手に自然と力がこもる。
「次から、ちゃんと言う」
かまぼこが言う。
「寂しかったら?」
「寂しいって言う」
「不安だったら?」
「不安って言う」
「よし」
はるはほっとしたように笑って、それから少しだけ恥ずかしそうに視線をそらした。
「私もちゃんと言う。余裕ないときは余裕ないって。好きなときは、好きって」
「それは今聞きたい」
「……今も好きだよ」
その言葉は、派手じゃないのに、胸のいちばん深いところに沁みた。
かまぼこは思わず目を細める。
はるも照れたように笑って、つないだ手を小さく揺らした。
駅前のざわめきは相変わらずだった。
人は行き交い、電車は時間通りに来て、夜はいつもみたいに進んでいく。
それでも二人にとっては、ほんの少しだけ大切な夜になっていた。
うまくいかない気持ちも、不安も、言葉にすればこんなふうにぬくもりに変わるのだと知ったから。
「ねえ、かまぼこ」
「ん?」
「次に会うときは、もっと元気な私で会う」
「じゃあ俺も、もっと素直な俺で行く」
「うん。それがいい」
はるはそう言って笑った。
その笑顔は、前より少しだけ疲れていて、でも前よりずっとほんとうだった。
恋はたぶん、完璧なまま続くものじゃない。
少しすれ違って、少し傷ついて、それでも相手のほうへ戻ろうとする。
その繰り返しの中で、ただの“好き”が、少しずつ“離れたくない”に変わっていく。
その夜、別れ際に離した手は、前みたいに寂しいだけではなかった。
また次に、ちゃんとつなぎ直せると知っていたから。
切なさの残る春の風の中で、かまぼことはるは、前より少しだけ強い恋を覚えていった。




