8話 崩壊
廊下の真ん中で、かまぼことぽけが睨み合っていた。
言葉はもう、意味を持たなくなりかけていた。
互いの怒りと後悔と焦りが絡まりすぎて、何を言ってもただ傷を増やすだけの段階に入っていた。
「……おまえ」
かまぼこが一歩、前へ出る。
ぽけも引かない。
「何だよ」
その低い返しに、空気がさらに張りつめる。
次の瞬間だった。
「ご家族の方、関係者の方——」
医師の声が、二人のあいだを鋭く断ち切った。
反射的に全員が振り向く。
白衣の医師は、数秒だけ言葉を選ぶように沈黙して、それから静かに頭を下げた。
「……申し訳ありません。
手は尽くしましたが、助けることができませんでした」
その一言で、世界が止まった。
ぽけの顔から一瞬で血の気が引く。
はるは目を見開いたまま固まる。
けれど、いちばん奇妙だったのは、かまぼこだった。
表情が動かない。
理解が追いついていないのか、あるいは逆に、何かが完全に切れてしまったのか。
彼は数秒その場に立ち尽くし、それからふらりと、誰より先に歩き出した。
「ちょ、おい」
ぽけの声も、もうかまぼこには届いていなかった。
医師や看護師が一瞬止めようとしたが、あまりにも様子がおかしかったせいか、強くは制止しきれなかった。
導かれるように、かまぼこはなてゃんぬのもとへ向かう。
部屋の中は、ひどく静かだった。
さっきまで生死の境にいたはずのなてゃんぬは、もう何も言わない。
何も返さない。
白いシーツの上で、きれいなまま、あまりにも動かなかった。
かまぼこはその姿を見下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。
目の前の光景を認識しているようにも、していないようにも見えた。
やがて、、、
「……ぶす」
「がっ がっ 」
かまぼこは動いた
そこで、後ろから入ってきたぽけが完全に顔色を変えた。
「お前……正気か」
低く、震えた声だった。
次の瞬間、ぽけはかまぼこを強く殴りつけた。
乾いた音がして、かまぼこの体が横へ崩れる。
けれどかまぼこは抵抗しなかった。
床に手をついたまま、痛みを感じているのかさえわからない顔で、しばらく動かない。
ぽけの肩は大きく上下していた。
怒りだけじゃない。
悲しみも、絶望も、目の前の男への嫌悪も混ざり合って、もう自分でも抑えきれなくなっていた。
「ふざけるなよ……」
ぽけの声が震える。
「ふざけるな……」
それでもかまぼこは何も言わない。
何も返さない。
ただ、ふらりと立ち上がった。
殴られた頬が赤くなっている。
でもその顔には怒りもない。
むしろ、現実から半歩外れてしまった人間みたいに、焦点が合っていなかった。
そして、もう一度なてゃんぬの横へ歩いていく。
ぽけが息をのむ。
はるも、ようやく我に返ったように一歩踏み出す。
けれど間に合わない。
かまぼこは、なてゃんぬのそばで、ひどく小さな所作で。
「しこ......しこ」
それは愛情表現なのか、謝罪なのか、壊れた頭の中で最後に残った断片なのか、誰にもわからなかった。
ただ、その場にいた全員にとって、正気の沙汰には思えなかった。
ぽけの中で、何かが決定的に切れた。
「やめろッ!」
叫ぶように言って、ぽけはかまぼこへ飛びかかる。
そのまま床へ押し倒し、何度も殴りつけようとする。
看護師の悲鳴に近い制止の声が飛ぶ。
医師もスタッフも慌てて動く。
「やめて、やめろって!」
はるも反射的に駆け寄った。
かまぼこに向かって怒鳴るように言う。
「何してるの!
ほんとに最低——」
そこまで言って、それでもはるはぽけの腕を掴んだ。
「でもやめて! ぽけさん、やめて! このままだとほんとにまずいから!」
ぽけは聞いていない。
泣いているのか怒っているのかもわからない顔で、かまぼこを押さえつけたまま荒く息をしていた。
「お前が……!」
「お前が、なてゃんぬを……!」
その声は言葉になりきらず、途中で潰れる。
かまぼこは抵抗しなかった。
殴られても、押さえつけられても、ただ虚ろな目で天井を見ていた。
それが逆に、ぽけの怒りをさらに煽った。
「何か言えよ!」
ぽけが叫ぶ。
「何か言えよ!」
その瞬間だった。
かまぼこの目が、急に揺れた。
焦点が合う。
白い天井。
乱れた呼吸。
頬の痛み。
ぽけの怒鳴り声。
はるの震えた手。
そして、少し離れた場所に見える、動かないなてゃんぬ。
そこでようやく、全部が一気につながった。
死んだ。
なてゃんぬが死んだ。
自分はその横で、やってはいけないことをした。
ぽけに殴られて当然のことをした。
はるに最低と言われても何一つ否定できない。
「……あ」
短い声が漏れる。
それは悲鳴ですらなかった。
底の抜けた人間から落ちた、空っぽの音みたいだった。
「俺……」
ぽけの手が止まる。
はるも、息を呑む。
かまぼこの顔から、さっきまでの異様な空白が消えていく。
その代わり、遅れて現実を飲み込んだ人間の青ざめた絶望が広がる。
「俺、何……」
喉がひきつる。
「何をした……?」
誰も答えない。
答えられない。
かまぼこは震える手で自分の股間を押さえた。
さっきした意味不明な行動が、自分の中に断片として戻ってくる。
なてゃんぬが死んだ。
その前で、自分は壊れたみたいに笑い、壊れたみたいに好意の切れ端を口にした。
人として終わっている。
恋人としても、元恋人としても、終わっている。
「……最低だ」
掠れた声。
「俺って……最低だ……」
ぽけは、まだかまぼこの胸ぐらを掴んだままだった。
でももう殴らなかった。
殴るより先に、目の前の男の壊れ方が、あまりにもみっともなくて、あまりにも遅すぎて、怒りの行き場さえ失わせたからだった。
はるも手を離せずにいた。
嫌悪している。
軽蔑もしている。
でも今のかまぼこは、責めれば責めるほど取り返しのつかないところへ沈みそうな顔をしていた。
「最低だ……」
かまぼこはもう一度つぶやく。
涙は出ていなかった。
泣く前に壊れてしまった人間みたいに、ただ同じ言葉だけを繰り返す。
「俺のせいだ……」
「全部……」
「全部、遅かった……」
白い部屋は静まり返っていた。
なてゃんぬはもう何も返さない。
ぽけの怒りも、はるの憎しみも、かまぼこの後悔も、全部受け止めることなく、ただそこに横たわっている。
その静けさが、何より残酷だった。
かまぼこは床に崩れたまま、なてゃんぬのほうを見た。
見てしまった。
もう二度と、目をそらせないと思った。
好きだった。
大事だった。
それなのに、最後に自分がしたことは、あまりにも醜くて、壊れていて、取り返しがつかなかった。
「……ごめん」
ようやく出たその一言だけが、かろうじて人間の声に聞こえた。
でも、それもきっと遅すぎた。




