第19話:聖域への招待状
リモートワークはマルチタスクで
(……完璧だ。カイルさんは領主に。ゼノさんは有能な賢者として補佐に。ガラムさんは、まぁ置いておいて。王国のバグ(横領)は、これからいくらでも食べてあげますよ。これでもう、誰も僕を『異国人のポーター』だなんて言わない。完璧なオーバーライド)
ハミルトン邸、深夜。
事務員たちが去り、静寂が戻った応接室で、ルーカスは一人、琥珀色の瞳を細めて「男爵叙勲」の最終決定通知を眺めていた。
王妃様の根回しもあったのか、書類手続きは前例のない速さで受理された。
あとは、明日。
この「身分(アクセス権)」という名の盾を持って、宝物を迎えに行くだけ。
右腕の包帯の下で、竜の血が熱を帯び、人間の皮が1bitずつ剥がれかけているが、それすらも「愛の証明(呪い)」としてリーゼに提示すればいい。
(……リーゼ。待ってて。もうすぐ人間のプロトコルで)
不意に。
重厚な扉が、ノックもなしに開かれた。
「……ルーカス様。夜分に申し訳ありません……あ、あの……その……」
侍女が、見たこともないほど狼狽した様子で、ルーカスへと視線を投げた。
「……『お客様』……です。……どうしても、今すぐにと」
「……あはは。……ハミルトン様、……まだ起きていたんですか? ……それともカイルさんが、また帳簿の数字に絶望して泣き言を……」
ルーカスが、余裕たっぷりに椅子を回した、その瞬間。
「…………ルーカスッ!!」
部屋の空気を、1bitの狂いもなく切り裂くような、鋭く、そして悲痛な叫び。
そこには、髪を振り乱し、瞳を真っ赤に腫らしたリーゼが立っていた。
「…………え?」
ルーカスの脳内OSが、物理的なフリーズを起こした。
(……リーゼ? なぜ。アクセス制限は完璧に固めてあったはず。……男爵位の受理まではまだあと数時間。今会うのは最適ではない)
「ルーカス、ルーカス、ルーカス……ッ!!」
胸に飛び込んできたリーゼの熱量に、ルーカスの思考回路はショート寸前だった。
腕の中に、ずっと求めていた「正解」がある。
その柔らかさ。
泣き腫らした瞳から溢れる、塩の混じった甘い匂い。
(……あ。ダメだ。いま、食べて(抱きしめて)はいけない。まだ、僕の牙は……隠しきれて……)
右腕の包帯の下で、鋭い爪が肉を突き破りそうに蠢く。
サングラスの奥、縦に割れた瞳孔が、彼女の白く細い首筋に釘付けになる。
今ここで、理性のリミッターを外してしまえば。
「騎士」だの「男爵」だのという行政的なラベルをすべて脱ぎ捨てて、このまま彼女を聖域へ連れ去ってしまえるのに。
だがそれでは、彼女の世界は壊れてしまう。
「……リ、リーゼ……」
ルーカスは、震える手で彼女の背中に触れた。
爪を立てないよう、指先を不自然に丸め、優しく、羽毛に触れるような手つきで。
「……あはは。遅れて、すみません。急、で……驚きました。どうして、ここに……」
喉の奥から這い出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「優しいルーカス」の皮が、内側から膨れ上がる怪物の熱量に耐えきれず、1bitずつひび割れていく。
「……賢者様が通してくれました。お父様が、ルーカスの名誉男爵位が承認されそうだって、ハミルトン伯爵様のところにいるって。……でも、そんなのどうでもいい! ……貴方が、貴方が治ったなら、ここにいるなら、どうして、会ってくれなかったの!?」
リーゼが顔を上げ、ルーカスのサングラスに手をかける。
ルーカスは反射的に顔を背けようとしたが、彼女の指先が、冷え切った彼の頬に触れた瞬間――。
(……あ。……心地いい……)
その温かさに、怪物の牙が、一瞬だけ大人しく収まった。
だが、それは救済ではない。
「もっと、もっと深く侵食したい」という、より深い独占欲への予兆。
「……リーゼ。……僕は、貴方に相応しい『形』に、なりたかっただけなんです。男爵の受理が下りれば、……明日には迎えに」
「そんなの、いらない。 ……ルーカスがいれば、それだけでいいのに、あんなボロボロになるなんて。駆け落ちでいいって、言ったじゃない!」
リーゼの叫びが、ルーカスの完璧だったはずの「コンパイル済みの世界」を、完膚なきまでにデバッグしていく。
扉の向こうで、ゼノが壁に背を預け、天を仰いだ。
「……なぁ、ルーカス。君の負けだよ。……降参して、その不潔な仮面を少しは脱いだらどうだ?」
ゼノは、良かれとルーカスに『アシスト』をしたのだ。
(……は? 負け? ……降参? ……この男、今、何を言った?)
ルーカスの脳内で、1bitの狂いもなく処理されていた感情ログが、一瞬で「プロトコル違反」という名のバグに汚染された。
(「降参」? ……僕が積み上げたこのステータス(男爵位)や、彼女を傷つけずに手に入れるための行政的な努力を、すべて捨てろと?「人間として理解し合え」?…ゼノという有能なサブシステムは、肝心なところで致命的なバグ(甘さ)を吐き出すらしい)
ルーカスの琥珀色の瞳から、ゼノに対する「賢者としての評価」が、物理的な速度でパージされた。
ルーカスは、リーゼを抱きしめたまま、苦く、甘い、絶望的な笑みを浮かべた。
ゼノの「自己満足な善意」が、彼の葛藤を、最悪の形で強制終了させていく。
「……あはは。降参、ですか。……そうですね、ゼノさん。僕の負け、です、リーゼ。少し、痛いかもしれませんが、我慢してください」
(……ええ。負けですよ。……『人間として』、君と向き合うのは、諦めました)
ルーカスは、彼女の首筋に顔を埋めた。
牙を立てる代わりに、深く、深く、彼女の香りを肺の最深部まで吸い込む。
偽装OSを維持したまま、彼女を自分のディレクトリへ「上書き保存」するために。
(あははは。駄目だ。リーゼも、ゼノも、何もわかっていない)
肺の奥まで吸い込んだ彼女の香りは、甘く、そして酷く「人間」の味がした。
彼女が求めているのは、ルーカスがこの数週間、血を吐くような思いで構築した「騎士」や「男爵」という名の社会的OSではない。
ただの、得体の知れない「ポーター(怪物)」との、破滅的な逃避行。
それを「愛」と呼ぶ彼女の純粋さが、ルーカスには耐え難いほど愚かに見えた。
そして、それを「降参して受け入れろ」と言うゼノの善意が、1bitも受け入れがたいほど不潔に見えた。
(……僕が……どれだけ、君を『人間』として幸せにするために、この世界のコードを書き換えたと思っているんですか。……駆け落ち? ……あはは。そんな低スペックな計画、受理できるわけがないでしょう?)
リーゼの背中に回したルーカスの指先が、ぴたりと震えを止める。
葛藤は終わった。
彼は今、リーゼを「理解し合うパートナー」から、自身の管理下にある「最優先保護オブジェクト」へと、1bitの狂いもなく強制的にステータスを書き換えた。
「……ルーカス?」
震える声で名を呼ぶ彼女に、ルーカスはゆっくりと顔を上げた。
サングラスの奥。
琥珀色の瞳から「熱」が消え、凍てつくような、それでいて完璧に穏やかな「管理者」の光が宿る。
「……そうですね。僕が悪かったです、リーゼ。……『形』なんて、どうでもよかった」
嘘だ。
1bitの狂いもなく、嘘のパッチを当てた。
彼は、自分が積み上げた「男爵」というアクセス権を捨てるつもりなど毛頭ない。
それを捨てれば、王国で彼女を管理するための物理的な権限が失われるからだ。
「駆け落ち、しましょうか。……今すぐに、君が望むなら」
「……っ、ルーカス! 本当に……?」
リーゼの瞳が、希望に輝く。
その光が、ルーカスの胸を1bitも打つことはない。
彼はただ、彼女を安心させ、自身のディレクトリへ繋ぎ止めるための「最適解(嘘)」を選択したに過ぎない。
「ええ。……でも、準備が必要です。夜逃げのログを消して、追手を排除するための……完璧な計画が。……ですから、今夜は一度、家へ戻ってください」
「嫌! 離れたくない……!」
「……あはは。……いい子ですね。……すぐですよ。……約束します、僕が必ず、君を『聖域』へ連れて行くと」
ルーカスは、彼女の額に冷たい唇を寄せた。
それは誓いではなく、「隔離」の宣告だった。
彼女が「自由な愛」へと逃げたつもりでいる間に、彼は「聖域」という名の、二度と出られない檻をコンパイルし直すのだ。
扉の陰で、ゼノがわずかに眉を顰めた。
「……ルーカス。お前は、今……?」
「……ゼノさん。……後押し(余計なバグ)、感謝しますよ。おかげで……1bitの狂いもなく、彼女を『管理』する最適解が導き出せました」
(……あなたは、結局人間なんだ。ね……『賢者』様)
ルーカスはサングラスを指で押し上げ、凍りついた微笑みをゼノに向けた。
その瞳は、もう「人間」として笑うことを、明確に放棄していた。
「……はい、リーゼ、落ち着いて。これにサインを。……『駆け落ち』の、証明書です」
暗い部屋、ルーカスが焚いたアロマのキャンドルらしき炎が揺れている。
「証明、書......?」
ルーカスが差し出したのは、古めかしい羊皮紙の表面を淡い魔力の残滓が走る、不気味なほど美しい書面だった。
「そう、証明書。これがあれば、僕たちはもう、誰にも引き裂かれません。……僕の言うことだけを信じていれば、君は僕と永遠に幸せになれる。……ほら、ペンを」
ルーカスは、豪奢なペンをリーゼの手に握らせた。
彼の声に重なる、1bitの狂いもない「強制受理」の響き。
リーゼの瞳が、ふっと焦点を失う。
彼女は、自分の意志だと信じて疑わないまま、ルーカスの差し出した「鎖」にペンを滑らせた。
その瞬間。
ルーカスの脳内に、彼女の精神ディレクトリへのアクセス権が「承認(Granted)」されたログが流れる。
(…………これで、君の世界の『正解』は、すべて僕が定義できる。……ね、リーゼ。……君を、正解の世界に連れてってあげます。『心地よい真実』でだけの世界に)
「さぁ、家に帰りましょうね、リーゼ」
「あ......はい」
ルーカスは彼女の手をとって、立ち上がる。
部屋を出る際、壁に背を預けたままのゼノと視線が交差する。
「……ルーカス。幸せに、なれよ……」
「……ゼノさん、そうですね。僕と彼女は、『幸せ』、ですよ。僕が全てを守ります」
ルーカスは、1bitの温度もない微笑みを向ける。
(全て偽装しましょう。リーゼ、あなたは楽園だけを見ていればいい。僕の腕の中で)
その決意を、ルーカスは自分だけが知る「転移」の座標として心に刻み込む。
翌日の夜更け。
ハミルトン邸の裏手、闇に溶け込む、一台の地味だが質の良い馬車の中。
リーゼは窓の外を見つめている。
「……ルーカス。本当に、行けるのね。……いつか、落ち着いたら、お父様にも……」
「ええ。……ええ、もちろん。……『旅行』が終われば、いつか。彼らは『分かって』くれますから」
ルーカスは彼女の細い肩を引き寄せ、その首筋に顔を埋める。
帝国のバイオ馬車の脈動に似た、彼の低い笑い声。
(……あはは。リーゼ。……さぁ、出発だ。僕の聖域へ。君のための鳥籠へ)
「さぁ、寝ていてください。先は長い」
意識をスリープさせる魔術をかけ、眠りに落ちるリーゼの額にキスをした。
「……よし。座標、固定。同期完了」
ルーカスは、御者台に座り「最新魔導技術の通信端末(ただの受信機)」を珍しそうに弄っているガラムに、1bitの温度もない微笑みを向けた。
「ガラムさん、特別依頼を頼みますね。このまま、カイルさんの領地へ。彼女……リーゼを安全に運んでください」
「おう? 俺が御者だな。……ルーカス、お前はどうすんだ? これ、駆け落ちだろ?」
ガラムが不思議そうに首を傾げる。
ルーカスはサングラスを指で押し上げ、その奥で琥珀色の瞳を不潔に細めた。
「あはは。僕は最新技術で常に『通信』していますから。……あ、それとガラムさん。彼女には、貴方のことが『僕』に見えるように暗示を当ててあります。変に喋りかけず、ただ静かに馬を走らせていれば、彼女は満足してくれますから」
「……は? 意味わかんねぇけど……まぁ、お前が言うならそうなんだな。王国の技術ってのは凄ぇんだな」
「ええ。最新ですから。……では、頼みましたよ。物理的な移送(肉体労働)は、貴方の得意分野でしょう?」
「ま、得意だな。任せろ! リーゼ嬢ちゃん、行くぜ!」
ガラムが威勢よく鞭を振るい、馬車がゆっくりと闇の中に溶け込んでいく。
ルーカスは、馬車のログが視界から消えるのを1bitの猶予もなく見届けると、そのまま踵を返した。
体調が回復してきた彼には、「転移」の予備動作すら必要ない。
次の瞬間には、彼はハミルトン邸の、煌々と明かりの灯る執務室の椅子に深く腰掛けていた。
「……あはは。さて、書類の仕上げ(不祥事の捕食)をしましょうか」
「……え、あ……ル、ルーカスッ!?」
椅子を回転させ、冷徹な微笑みを向けた先。
そこには、今しがた「友の悲痛な旅立ち」を聞いて傷心したばかりの、魂の抜け殻のようなカイルが立っていた。
「な、なんで……お前、今、さっき、リーゼさんを連れて『駆け落ち』ってゼノが……!?」
「ガラムさんに任せました。彼は書類仕事が苦手ですからね。適材適所というやつです」
「ガラムに!? 駆け落ちを外注したのか!? お前……お前、情緒とか……人としての当たり前とか、そういうのは……!」
カイルが目を剥き、処理落ちしたPCのように口をパクパクさせる。
ルーカスは、そんなカイルの絶望には1bitも興味を示さず、山積みの帳簿をスマートに引き寄せた。
「あはは。カイルさん、声が大きいですよ。……それより、この横領の修正パッチ、夜明けまでに終わらせてしまいましょう。彼女は僕が遠隔で愛を囁きます。その間に、僕自身はここで王国の歪みを正してあげるんです。……効率的でしょう?」
「は、はぁぁぁ!? お前……お前、もう……」
カイルは天を仰ぎ、そのまま机に突っ伏した。
「……俺はもう、数字は見たくない……。お前が人間だろうが怪物だろうが、この地獄の事務作業から救ってくれるなら、もう何でもいいんだ……」
「あはは。いい反応ですね、カイルさん。……さぁ、ログイン(執務再開)してください。夜はまだ、始まったばかりですから」
不潔な静寂の中、ペンが走る音だけが室内に響く。
「.......はぁ」
その後ろ、響く頭痛に頭を抑えながらゼノが目を閉じる。
彼は、考えるのを放棄した。
数百キロ離れた場所で、偽物の温もりに抱かれる少女と。
ここで、冷徹な数字の山を喰らう怪物。
1bitの狂いもない、完璧な「二重生活」が、今、起動した。
帝国公安委員会 聖遺物保全局監査官:
「精神操作は、所定の書式(第14号様式)を用いて情動省の認可ポートを叩いておけ。……あぁ、対象が非帝国民(未登録オブジェクト)か。なら勝手にしろ、申請の無駄だ」




