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第3章 理想と現実の間で-1


 勝弥は恭平のベッドで眠っていた。

陽香が恭平の部屋の入ったのは初めてだった。ベッドとクローゼットがあるだけの淋しい

部屋に思えた。恭平はいつもこの部屋で何を思っているのだろうか。

 窓から生温かい湿った風が入ってくる。

「オレが見つけちゃるけー」

「東さん?」

 陽香は勝弥の顔を見た。目は閉じている。どうやら寝言だったらしい。

今思えば、あんな風に他人と、しかも初対面の男性と話をしたのは初めてのような気がした。

 記憶を失ってからは学校へも行こうとはせず、外出も避けてきた。


 この人なら、陽香をあの夢から解放してくれるかもしれない。


 胸中でそんなことをふと思う。

 漆黒の闇の中に閉じ込められた自分。あの夢にうなされた時は決まって夢遊病の症状が出

ている。無意識のうちにあの夢から逃げ出そうとしているのかもしれない。

 寝息を立てている勝弥に、陽香は顔を近づけた。

 その時。

 勝弥がぱっちりと目を覚ました。

あからさまに目が合い、陽香は大仰に驚いて後退りした。

「陽香ちゃん?」

「あ、あの、ごめんなさいごめんなさい!」

 陽香は何度も何度も謝った。勝弥は半身を起こすと、きょとんとした顔を見せた。

「陽香ちゃん、何も悪い事してないのに何で謝るん? っていうか、ここどこ?」

「私の家です。東さん、お兄ちゃんに蹴られちゃって。軽い脳震盪だから大丈夫って言って

ましたよ」

「もしかして、オレ陽香ちゃんのベッドで寝てた?」

「ちがいます! お兄ちゃんのです」

 一瞬スケベな笑みを見せた勝弥に、陽香は即行で否定した。すると、勝弥はがっかりして

頭を垂れた。

 が。

「あ―――――っ!」

 何かを思い出したように大声を上げる。

「お兄ちゃん? お兄ちゃん? あの人、お兄ちゃん?」

 勝弥はしつこく連呼して聞いてきた。

「はい、お兄ちゃんです。頭痛かったでしょう? お兄ちゃん、手加減しないから」

「体は頑丈な方じゃけー、どうってことなぁけど。にしても、ずいぶんと過保護な兄貴なん

じゃなー。妹が男と歩いとるだけで、蹴りが飛んでくるんじゃから」

 勝弥は側頭部をさすりながらも、気を悪くした様子を見せるわけでもなく軽く笑い飛ばし

てくる。

「お兄ちゃん、空手やってるんです。だから」

「空手? やっぱタダもんじゃなかったんだな」

 勝弥の目がまるで水を得た魚のように輝いて見えた。

「一階で空手教室やってるんです。今ちょうど午後の部の生徒さんたちが来ていて」

「オレも空手やっとるんじゃけど、見学させてもろうてもええじゃろうか?」

「たぶん大丈夫だと思いますよ」

「やりっ!」

 ベッドから降りるなり、ガッツポーズを取る勝弥はまるで子供のようだった。恭平と志穂

しか知らない陽香にとって、コロコロと表情が変わる勝弥は珍獣のように思えた。


 ぐぅるるるるぅ。


 極めつけは、勝弥のお腹の虫が鳴ったことだった。

「寝とる間にエネルギー切れきゃあ」

 勝弥は力尽きたのかベッドに座り込んだ。

 そんな勝弥を見て、陽香は笑いを抑えることができずに小さな笑い声をもらしてしまう。

「オレ、何か変なことした?」

「あ、いえ。そんなんじゃなくて、その……」

 うまく説明できなかった。

 困惑している陽香を見て、今度は勝弥が笑い始めた。

「オレ、アクションスターやめてコメディアン目指そうかのぅ」

 勝弥の屈託のない笑顔は、陽香に不思議とやすらぎを与えてくれた。

 ぎゅるるるるるるるぅ〜。

 再度、勝弥はお腹の虫が鳴った。

「あ、オレのリュックは?」

 勝弥は恥ずかしがることもなく、聞いてくる。

「これですか?」

 陽香はベッドの下に置いてあったリュックサックを差し出した。

「あんがと。この中におばちゃんがくれたおにぎりが」

 勝弥はリュックサックの中から何やら包みを取り出すと、

「がぁ―――っ!」

雄叫びを上げた。

「ぺちゃんこになっとる……」

 勝弥は物悲しそうそうな瞳で、アルミホイルに包まれていたぺちゃんこになったおにぎり

を見つめていた。

「ごめんなさい」

「ええって。腹に入れば同じじゃけー、かまわんわ。陽香ちゃんも食べる?」

 勝弥はおにぎりを頬張ると、リュックサックからおにぎりを一つ取り出し陽香に手渡す。

「うまい! こういう味ってのはコンビニじゃ出せんのよのー」

 本当に美味しそうに食べていた。

 陽香は勝弥につられて、思わず一口食べてしまう。変哲のない海苔が巻いてある普通のお

にぎりだった。

 陽香には勝弥の言う違いがわからなかった。しかし、勝弥はうまいを連呼して次々とおに

ぎりを頬張っていった。

「ぐっ」

 いきなり勝弥が苦悶の表情を見せた。

「どうしたんですか、東さんっ?」

「み、み、水」

 どうやら一度に頬張りすぎて喉に詰まったらしい。

「ちょっと待っててください」

 陽香は慌ててキッチンへ向かうと、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを持ってく

る。勝弥はコップに注ぐのが待ちきれなかったのか、陽香から強引にペットボトルを奪い取

ると一気にそれを飲み干した。

「ぷっは〜。あー、マジで死ぬかと思うた」

 ぜぇぜぇと息を荒げる勝弥だったが、すぐに残りのおにぎりを食べ始める。

「陽香ちゃん、まだ食べる?」

「いえ」

 陽香は苦笑した。

 バクバクとおにぎりを平らげていく勝弥を見ているだけでお腹がいっぱいになりそうだっ

た。

「ごちそうさまでした」

 食べ終わった勝弥は両手を合わせた。

「いやー、食った食った。こんなに腹いっぱい食べたんは上京して初めてじゃ」

 満足げな笑みを浮かべていた。

「ありゃ?」

 勝弥は開いていた窓の外に目を向けた。

「オレの自転車じゃんか。何だ、ここって麻衣姉のアパートの斜め前にあんだ。全然気付か

んかったのー。あーっ!」

 独り言の後、何度目かの雄叫びを陽香は聞いた。

「しもうた。聖ポリアンヌ女子大学に行かにゃあならんかったんじゃった。くそー、道場見

学できんじゃなぁかぁ」

「道場の見学ならいつでもできますよ」

 陽香がそう言うと、勝弥は喜んだ顔を見せるが、またすぐにガックリと肩を落とす。

「問題は自転車だ。パンクしとるけーどこにも行かれんじゃなぁかー!」

 勝弥は頭を抱えていた。何やら困っているのはわかる。

「陽香ちゃん! 東勝弥、一生に一度のお願いじゃ!」

 勝弥は陽香の前で土下座した。

「あの、東さん?」

「千円でええから貸してもらえんじゃろうか?」

「はい?」

 陽香は呆気に取られた。




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