第3章 理想と現実の間で-2
午前中の夏期講習を終わらせた志穂は、愛車ホンダS2000を目白にある聖ポリアンヌ
女子大学に走らせた。アクセルを踏み込むと、デジタルタコメーターが七千回転を越え、V
TECエンジンが心地よい音を響かせた。
「もう二度と来ることはないと思ってたけどね」
聖ポリアンヌ女子大学の門前に車を停めると、志穂は苦笑した。
夏休みが幸いしたか、女子大生の数も少ない。が、塾から直行したためスーツを着ていた
志穂は、行き交う女子大生たちの眼差しを感じた。
美人って目立ってしまうのよね。着替えてくればよかったかしら。
しかし、またすぐに塾に戻らなければならない。いちいち着替えている余裕はない。
志穂は迷うことなく足早に第四校舎へ向かった。
諏澤研究室。
かつて真田研究室として設けられていた場所はその名を変えていた。その扉には『関係者
以外立ち入り禁止』という張り紙がしてある。
こみ上げてくる怒りを抑えながら、志穂は中に入った。中は使われていない大きなロッカ
ーが残っているだけの、ただの空間。
三年前に一度だけ入ったことがあった。その時はパソコンやら見たことのない機材などが
あったが。
「美奈子……」
志穂は、三年前に死んだ親友の名を呟いた。
篠原美奈子は聖ポリアンヌ女子大学家政学部児童学科に通う女子大生で、父が経営する塾
で幼等部の講師のアルバイトをしていた。
当時、高校二年生だった志穂は、天才と謳われた兄、雅輝と比べられることが嫌で高校に
もまともに行かず遊びまわる日々を送っていた。そんな志穂に業を煮やした母、奈津子は、
志穂を塾の高等部の春季講習に無理矢理参加させた。
そこで、志穂は美奈子と出会った。彼女は二十歳だというのに、年上といった感じは全く
なかった。教科書を教室に持っていくのを忘れたり、何もないところでつまずいてみたり。
よく塾の講師として雇ってもらえたものだと感心するぐらい、ドジな女性だった。
志穂はそんな美奈子をいつも目で追っていた。いつの間にか美奈子に会えることが楽しみ
になっていたのだ。
母親の愛に飢えていた志穂を、美奈子はやさしく包み込んでくれた。それから、志穂は高
校にも戻り充実した日々を送っていた。
あの事件が志穂から大切な人を奪うまでは。
「あなた、そこで何をしているの?」
女の声に、振り返る。肩までの髪を一つに束ねたスーツ姿の女性が、きびしい瞳でこちら
を見据えていた。女子大生というよりは、美人教師といった感じだ。
「そこは二ヶ月前に閉鎖されたのよ。立ち入り禁止の張り紙が見えなかったの?」
「すみません。私近眼なものでして」
志穂は研究室を出ると、白々しく張り紙に顔を押し当てた。
「おかしな人ね」
女性は志穂のそんな仕草を見て、くすりと小さな笑い声をもらした。
「ここは諏澤教授の研究室だと思ったですが?」
ウソも方便。諏澤教授など知りもしない志穂だった。
「どういったご用件でしょうか?」
女性は怪訝そうな顔に戻る。
「失礼。私は教授の教え子でして」
「教え子? 諏澤教授は五年前にはこの大学にいらしたんですよ。あなたが教え子っていう
のはおかしくありません?」
「あ、バレちゃいました」
女性はあからさまに不審がっていた。
「私は塾の講師やってるんです。諏澤教授をぜひうちの塾にお迎えしたいと思いまして」
志穂はスーツの内ポケットから名刺入れを出すと、一枚を彼女に差し出す。
「楠野スクール? 楠野スクールって、都内を拠点にしてエリートを生み出しているってい
う塾の……。こんなに若い人がやってたなんて」
「違いますわ。それは父です。私は親の脛かじって小等部の講師やってるだけですから」
「ごめんなさい。私はここで心理学科の講師をしている三枝咲月と言います」
咲月は警戒を解いたのか、対応が幾分やわらかくなった。
「せっかく訪ねて来ていただいて申し訳ないのですが、諏澤教授は二ヶ月前に大学をお辞め
になりました」
「辞めた?」
「ええ。娘さんを事故で失ってしまわれてからというもの何もやる気になれないと言われて」
「今はどちらに?」
「ご自宅も売却されてしまわれたようで、こちらでは全くわかりません」
「そうですか」
志穂はガッカリして見せた。実際どうでもいいことだが。
「この研究室は呪われてるのかもしれないわね」
「え?」
志穂の小さな呟きを美咲は聞き返してきたが、志穂は同じセリフは言わなかった。
「こうして出会ったのも何かの縁ですし、いっしょにランチでもいかがです? 美味しいお
店知ってるんですけど」
「先約があるので、ご遠慮させていただきます」
「あら残念。またお時間のある時にでも」
「私、そんなにヒマじゃないの」
咲月は全く関心がないといった様子で、社交辞令的な答えすら返ってこなかった。
「でも、また会うことになると思いますわ」
なぜかそう思えた。
志穂は苦笑すると、第四校舎を後にした。




