親分とか聞いてないけど?
どうもはじめまして春と桜です。
初めての作品なのであたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
街中から怒号が飛び交った。しかし不思議なことに、本気で追いかけようとする者は誰もいなかった。魚屋の河童は頭を抱え、近くの団子屋はまた始まったと言わんばかりに肩を落としている。どうやらこの騒ぎは、羅生街では珍しくもない日常の一部らしい。
黒い猫又は焼きたての鮎を咥えたまま屋根へ飛び乗った。陽を弾く毛並みは夜のように艶やかで、腰から伸びた二本の尻尾が勝ち誇るように揺れている。人々の怒声など聞こえていないのか、それとも聞いた上で無視しているのか、猫又は屋根の上から私たちを悠々と見下ろしていた。
「有名なん?」
「羅生街で知らない者はいない盗人猫だ。あの辺りの野良猫どもを束ねている親分で、足の速さだけなら天狗でも追い付けない。捕まえた奴には店主たちから銀三十枚の報奨金が出るらしいが、今まで受け取れた者はいない」
「銀三十枚って、どれくらい?」
「宿に泊まって腹いっぱい食べても、しばらく暮らせる程度だ」
「イナリ、私あの猫と親友になれる気がする」
「捕まえる前から金として見ている奴が親友を名乗るな」
私は再び屋根を見上げた。猫又と目が合うと、そいつは鮎を咥え直し、わざわざこちらへ尻を向けて二本の尻尾を振った。間違いない。数百万年にわたって鬼たちの挑発と罵声に耐えてきた私には分かる。あれは完全に煽っている。
「へぇ、天狗でも追い付けへんの」
「その顔をやめろ。お前が余計なことを考えている時の顔だ」
「私はただ、銀三十枚が屋根の上を歩いてるなぁと思っただけや」
「猫として見てやれ」
私は石畳の上へ片足を出した。本当に一歩だけだったし、全力で走ったつもりもない。ただ少し近付いて、親愛なる銀三十枚の顔を拝んでやろうと思っただけである。ところが数百万年という歳月は、どうやら私の身体を本人の知らないところで随分とおかしく作り変えていたらしい。
足が地面へ触れた瞬間、石畳が鈍い音を立てて陥没した。風が耳元で悲鳴を上げ、屋台も人混みも提灯も一本の帯になって後方へ流れていく。視界が追い付かないまま身体だけが前へ飛び出し、次に瞬きをした時には、私はさっきまで見上げていた屋根の上へ立っていた。
しかも猫又の真横である。
「……にゃ?」
「……あれ?」
猫又は鮎を咥えたまま硬直していた。私も同じくらい硬直していた。下の通りを見れば、河童も鬼も天狗も、先ほどまで客を呼び込んでいた商人たちまで、そろって口を開けたままこちらを見上げている。何が起きたのか誰にも理解できていないらしいが、それは私も同じだった。
ただ一つだけ確かなことがある。今の一歩は、きっとウサイン・ボルトを超えていた。いや、間違いなく世界記録保持者の走りだったし、百メートルという距離さえ存在していれば、新記録を樹立して盛大な拍手を浴びていたに違いない。残念ながら地獄には計測員がおらず、いたところで私の姿を目で追えたかは怪しい。
「お前、なんでそこにいる」
「分からん。唸ったみたい、私の脚力が」
「一歩しか動いてないだろ」
「世界記録って、案外簡単に出るもんなんやな」
「お前の常識がないという俺の判断は正しかった」
イナリの声が遠くから届いた直後、猫又が我に返った。二本の尻尾が針のように逆立ち、鮎を落としそうになりながら屋根の向こうへ全速力で駆け出していく。確かに速かった。黒い身体は風景へ溶け込み、屋根から屋根へ飛び移るたびに、残像だけを置いて消えていく。
けれど妙だった。猫又が必死に十歩走る間に、私が一歩踏み出せば隣へ追い付いてしまう。本人は命懸けで逃げているのに、私は加減が分からず、追い越しては待ち、また追い越しては屋根の上で首を傾げることになった。鬼教官の訓練では一度も褒められなかったが、世間へ出てみると、私は意外と足が速いらしい。
「待ってや、別に取って食おうとは思ってへんから!」
「にゃああああああ!!!」
「銀三十枚として大切に扱うだけやから!」
「余計に怖がらせてどうする!」
街路からイナリの怒鳴り声が追いかけてくる。猫又はますます速度を上げたが、焦りすぎたのだろう。古い瓦へ足を置いた瞬間、それが音を立てて割れ、小さな身体が屋根の端から大きく傾いた。二本の尻尾が宙を掻き、そのまま石畳へ真っ逆さまに落ちていく。
私は考えるより先に屋根を蹴った。空中で猫又の首根っこを掴み、その身体を抱えたまま通りへ着地する。足元の石畳には新しい亀裂が走ったが、猫又にも私にも怪我はなかった。腕の中の黒猫は鮎を落とし、魂まで抜けたような顔でぶら下がっている。
「捕まえたで」
「……にゃぁ」
羅生街から音が消えた。誰も叫ばず、誰も動かず、ただ私と腕の中の猫又を見つめている。やがて魚屋の河童が震える指をこちらへ向け、信じられないものを見たような顔で口を開いた。
「親分を……捕まえた」
「嘘だろ、天狗三十人で囲んでも逃げたんだぞ」
「あの姉ちゃん、たった一歩で追い付かなかったか?」
「やっぱり美人は足も速いんやな」
「そこは関係ねぇよ!!!」
最後の一言をきっかけに、通りが割れんばかりの歓声に包まれた。店主たちは手を叩き、通行人は屋根から身を乗り出し、事情を知らない者まで何となく一緒になって喜んでいる。数百万年もの間、何をしても怒鳴られ、殴られ、役立たずと判断されてきた私には、その称賛が自分へ向けられているものだと理解するまで少し時間がかかった。
「姉ちゃん、約束の報奨金だ。銀三十枚、確かに受け取ってくれ。それと今日の飯はうちで好きなだけ食っていい。あいつを捕まえてくれた礼だ」
「宿なら俺のところへ来な。三日はただで泊めてやる」
「団子も持ってけ。白髪のべっぴんには一本おまけだ」
「待って、ほんまに全部もらってええの?」
魚屋の河童は、当たり前だろうと豪快に笑った。私の両手へずしりと重い銀貨の袋が載せられ、その上へ団子や焼き魚や握り飯まで次々と積まれていく。頑張ったら褒められる。誰かの役に立てば礼を言ってもらえる。そんな当然のことを、私は長い地獄の訓練の中ですっかり忘れていた。
「……イナリ、私いま働いた」
「猫を追いかけただけだがな」
「初任給や」
「それは報奨金だ」
「細かい男はモテへんぞ」
「銀を返せ」
慌てて銀貨の袋を胸へ抱え込んだ時、路地裏から小さな影がいくつも姿を現した。耳の欠けた子猫、片目を布で覆った猫、まだ尻尾が一本しかない幼い猫又までいる。その全員が捕らえられた黒猫を見上げ、今にも泣きそうな顔をしていた。
「親分が負けた……」
「あの姉ちゃん、親分より速いぞ」
「ということは、あの人が新しい親分?」
「親分!!!俺たちを舎弟にしてください!!!」
猫妖怪たちは一斉に私の前へひれ伏した。腕の中にいた元親分まで、なぜか観念したように頭を下げている。私は銀貨と食べ物と黒猫を抱えたまま固まり、助けを求めてイナリを見た。しかしイナリは腹を抱えて笑い、私を救う気など欠片もないらしい。
こうして羅生街へ到着した初日、私は初めての給料と寝床と大量の食事を手に入れた。
ついでに猫の舎弟までできた。
「親分!!!」
「なんでやねん!!!」
代表作【暁の女帝〜狛犬と異世界革命〜】連載中です!
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