魔王はスタンプカードを持っている。
「今日はこれで帰るよ」
アスモデウスはふっと笑った。
「最初からそうして」
マグナはため息をつく。
アスモデウスは肩をすくめると、カウンターへ視線を落とした。
そこには、小瓶に入った神性糖。
琥珀色の粒が、静かに揺れている。
「……その砂糖」
「そのうち、分けてもらう日が来る気がする」
そう言って、指先が瓶へ伸びる。
「触っちゃだめだからね」
マグナが慌てて瓶を抱き寄せる。
その瞬間だった。
「…………」
店の奥。
毛布に包まれたヒュプノスが、ほんの少しだけ目を開いた。
店内の空気が変わる。
風も。
音も。
時間さえも。
すべてが、ゆっくりと沈み始める。
アスモデウスの笑みが初めて止まった。
「これは……」
まぶたが重い。
視界が霞む。
立っているだけなのに、深い水底へ引き込まれていくような感覚。
「夢の淵へ」
ヒュプノスは、それだけ言った。
コト。
アスモデウスは椅子へ腰を下ろすように、そのまま静かに眠りへ落ちた。
「ね、寝たぁ!?」
マグナが思わず声を上げる。
「ヒュプノス様! さっすが!」
返事はない。
もう寝ている。
「えぇぇ……」
マグナはヒュプノスとアスモデウスを交互に見つめる。
「これ、どうするのぉ……」
数秒後。
「……効いた」
アスモデウスがゆっくり目を開けた。
大きく息を吐き、苦笑する。
「眠りへ引きずり込まれるなんて、何百年ぶりだろう」
「たった数秒でも致命傷だ」
(……神眠、イラストリアス)
(眠りの神が支配する絶対睡眠領域──)
ヒュプノスはもう寝息を立てている。
アスモデウスはその姿を見つめ、静かに笑った。
「やっぱり神は違う」
そう言いながら、この店のポイントカードを差し出す。
「……帰れって」
マグナは額を押さえる。
「次はスタンプ二つ分、よろしく」
「また来るよ」
アスモデウスはそう言って、ひらりと手を振った。
カラン。
ベルの音とともに、金髪の魔王の姿が夕暮れの街へ消えていく。
店内には静けさだけが戻ってきた。
マグナはカウンターの奥から神性糖を取り出し、灯りへ透かした。
琥珀色の粒が、小さく揺れる。
「……やっぱり、今日の甘さはちょっと強いね」
瓶を棚の奥へしまい込む。
その隣では、淹れたばかりのコーヒーがまた静かに冷めていった。
客が帰ったあと、マグナが窓の外を見る。
「……また始まった」
遠くで黒煙が上がる。
白い翼が舞い、冥界の兵が迎撃へ向かっていく。
最近は、人間と天使が手を組んで冥界へ攻め込んでくることも珍しくなくなった。
マグナは静かに目を細める。
「うかうか営業してられないか」
「……スルト」
(ここも、そのうち戦場になる)
かつて隣で戦った魔王の名を、マグナは静かに呟いた。
読んでくれてありがとうございます。続きもゆるく楽しんでもらえたら嬉しいです。




