ウリエルは忘れない。
「過去の俺は死んだ」
サタンは、それだけを短く言った。
その言葉に、ウリエルはしばらく黙っていた。
「……そうですね」
いつもの軽さはない。
少しだけ寂しそうに笑う。
「でもね。死んだ方を勝手に忘れるほど、私は薄情じゃないの」
サタンは何も返さなかった。
ただ一瞬だけ、視線を伏せる。
「……また来ますわ」
ウリエルはそう言って、背を向けた。
◇
「ハデス様。天界の熾天使が二名、この冥界へ来ております」
報告を受けたハデスは、書類から目を離した。
「とうとう来たか」
その一言だけだった。
驚きも焦りもない。
むしろ、そうなることを最初から知っていた者の声だった。
「サタン様への説得は失敗したようです」
「当然だろう」
ハデスは静かに立ち上がる。
「今さら『帰ってこい』と言われて戻る男ではあるまい」
タナトスは黙って頷いた。
「上層部を集めろ」
「はっ」
冥界は静かに動き始めた。
◇
しばらくして、カロンが書類を抱えて部屋へ入る。
「いやぁ、妙な話が入ってきましてねぇ」
「聞こう」
ハデスが促す。
「天界側が動いた理由ですが……どうやら最近、規律が少しずつ乱れ始めているようでさ」
「規律?」
ハデスが眉をひそめる。
「ええ。以前なら即座に決まっていた判断が止まる、命令系統も以前ほど機能していないそうで」
「唯一神の存在は」
カロンは首を横へ振った。
「以前のように明確な意思を示さないそうす」
「……なるほどな」
「規律の維持が困難になっています」
ハデスが重々しく口を開く。
「つまり……天界は……」
一瞬、全員が注目する。
「……ふが」
タナトスが目を閉じる。
「……またですか」
リュネが無言で近づく。
「ハデス様、失礼します」
「待て、ひまは重要なふぁなひを」
「入れ歯の調整です」
洗浄が終わりハデスは腕を組む。
「ルシフェルを失った穴が、今になって表へ出始めたか」
「あっしもそう考えています」
カロンは一枚の古びた紙を机へ置いた。
「それと、こちらは堕天当時の記録ッス」
ハデスが紙へ目を落とす。
そこには短く記されていた。
強欲。
規律への反発。
欲求不満。
部屋が静まり返る。
タナトスがぽつりと呟いた。
「反逆というより……積もり積もった感情か」
「伝承は美しく語られますからね」
カロンは肩をすくめる。
「記録というのは案外、夢がありやせん」
ハデスは紙を閉じた。
「天界は迷い始めた」
妙に静かな声だった。
「規律だけでは世界は回らんということだ」
誰も返事をしなかった。
冥界には、重苦しい沈黙だけが流れていた。
◇
「サタン様、天界の方々がお帰りになった後から、書類を見る時間が増えております」
玉座に座るサタンに、黒い衣装を整えた秘書が一礼する。眼鏡の位置を軽く直し、跪いた。
「そうかな」
「……気にされていますか?」
「少しはな」
サタンは顎に手をやり、しばらく考え込む。
秘書は、その仕草を静かに見つめていた。
それはサタンになってからではない。
かつてルシフェルだった頃から、変わらない癖であった。




