昔の俺のほうが、格好よかったのではないか。
冥界の最下層コキュートスの中心に建つ万魔殿。
地獄を統べる者が座す、巨大な黒の宮殿。
黒曜石の壁面には、歴代の地獄の王たちの紋章が刻まれている。
高位悪魔たちですら容易には足を踏み入れないその場所で、現在もっとも響いている音は──
書類をめくる音だった。
「……終わらんな」
サタンは机に積まれた書類を見つめていた。
「オノケリス」
「はい」
「俺は、変わったと思うか」
「外見の話でしょうか、内面でしょうか」
「……昔の姿のほうが、威厳があった気がしてな」
「は……」
「ルシフェルという存在を失ったことで、周囲を失望させていないか」
「サタン様……」(眼鏡を押し上げながら)
「……その質問は業務範囲外です。」
「本気で相談しているんだ」
「申し訳ありません。あまりにも予想外の内容でしたので」
「何だその態度は」
「いえ、天界の存亡か、冥界の危機かと思っておりました」
「俺の容姿は重大問題だ」
「……」
眼鏡を外してため息をつくオノケリス。
「昔の姿なら、もっと説得力があったかもしれん」
「サタン様は、以前のご自分を気にされているのですね」
「ウリエルの言葉が、引っかかっている」
オノケリスは何も言わず、次の言葉を待った。
「過去は死んだと言ったのに、なぜか気になるんだ」
独り言に近い呟きだった。
答えを求めているわけではないと分かっていたから、オノケリスもすぐには口を挟まなかった。
オノケリスは終始冷静だった。
眼鏡を押し上げ、古い記録を整理し始める。
そこには昔のルシフェルの記録映像や肖像画。
サタンが何気なく見る。
「……昔の俺か」
「はい。天界では、今でも語り継がれているそうです」
「随分と綺麗な姿だな」
「……ご自身のことですよ」
「分かっている」
少し間。
「戻れるものなら、と思っただけだ」
オノケリスが驚く。
「しかし、無理だな」
「昔の俺のほうが格好よかったと思わないか?」
「……」
オノケリスは数秒、沈黙した。
いつものように冷静な秘書が、珍しく言葉を探している。
「なぜ黙る」
「……そ、ええと…………」
「何だその間は!」
「返答に困っております。
回答によっては、主君の機嫌を損ねる可能性がありますので」
むきになって身を乗り出すサタンに、オノケリスはわずかに口元を緩めた。
長年仕えてきた分、こういうやり取りには慣れている。
「えーわたくしめが思いますに…」
「ルシフェル様の時は神々しく、美しく、神聖で、カリスマ性がございました」
「サタン様となられてからは、禍々しく、圧倒的で、異形の大魔王へと変貌されました」
「つまり、『劣化』ではなく美の方向性が180度変わったのです」
「いや、昔のほうがモテた気がする……」
(昔のほうが、近寄りやすかった気がする)
「あの頃は悲鳴を上げられることは少なかった」
「今は十分恐ろしいです」
「ハデス様と共に、冥界を、地獄を統べるのに相応しい御身かと」
「ううむ……」
サタンは腑に落ちない。
「恐ろしい魔王の城」
「でも実態は事務仕事に追われている」
黒曜石の机に積まれた書類の山。
「あーーーもう!!」
玉座の横には、威厳とは無縁の大量の報告書、サタンはそれらを床にばらまいた。




