熾天使、説得に失敗する。
その日、冥界に、異常な光気が吹き荒れた。
本来なら死者しか訪れない暗黒の地に、天界の光が降り注ぐ。巡回中のタナトスの前に現れたのは──二人の熾天使だった。
一人は、神の言葉を伝える天使。
もう一人は、炎を司る天使。
ガブリエル、そしてウリエル。
「冥界ってもっと陰気な場所だと思ってたんだけどねぇ」
物珍しげに周囲を見回すオネエ系のウリエルの前に、タナトスが立ち塞がる。
「……陰気だが」
「いやアンタが言うと説得力あるわ」
「何用だ?」
「ルシフェル様をお迎えに」
「なるほどな、しかし本人が拒否したら?」
タナトスが淡々と問い返すと、ウリエルは一瞬だけ言葉に詰まり、それでも表情を変えずに答えた。
「……説得しますよ」
タナトスは使節到来を庁舎へ伝えた。ほどなく面会の許可が下りる。
◇
冥界庁舎。
二人の熾天使が優雅に一礼した相手は、執務机で書類を眺めていたサタンだった。
ウリエルは息を呑み、ガブリエルもまた言葉を失った。
そこにいたのは、確かにルシフェルの面影を残した存在だった。
しかし、かつて白銀の翼を広げていた熾天使の姿は、もうそこにはなかった。
「ルシフェル様、天界にお戻りくださいな」
「……誰?」
怪訝そうに顔を上げるサタンに、ウリエルは目を瞬かせる。
「え? ルシフェル様……」
「俺のこと?」
「左様でございます」
「いや、俺ルシフェルじゃないって」
「その反応が一番困るんです」
(この人は変わってしまった、でも、偽物ではない)
困り顔の熾天使に、サタンは肩をすくめた。
「その名前は何か引っかかるが、俺じゃない」
「そんな……」
「ウリエル、と申したな。言うなれば……」
「俺は新しく脱皮した、生まれ変わったのだ。過去の姿も記憶も今はもう必要ない」
これがサタンの本音で堕天したルシフェルの末路であった。
(一部記憶まで失っているのね……)
ウリエルの視線が、彼の背後へ向く。
岩盤を削り出したような黒い皮膚。
生物の翼とは思えない、昆虫の翅を思わせる十二枚の異形の翼。
それは天使の名残を残しながら、完全に別の存在へ変質していた。
結局、その場は押し問答のまま終わり、数百年越しの任務は、開始早々に頓挫した。
◇
いったん説得を諦めたウリエルは、腐りながら悪魔カフェへと足を運んでいた。
愚痴を垂れ流しながら、カウンターに突っ伏す。
「……長い年月をかけて、ようやく再会できたと思ったのに~」
(強制されたわけじゃない……問題はルシフェル様自身が、自由意志で堕天したという事ね)
ウリエルの端正なその横顔には、隠しきれない落胆が滲んでいた。
「……今日は帰る気になれないわね」
「まぁまぁ、コーヒー飲む?」
マグナがそう声をかけると、ウリエルは顔を上げる。
「私は天使よ?」
「うん知ってる。羽見えてるし」
「……」
「……砂糖は二つで」
しぶしぶといった様子でカップを受け取りながら、ウリエルは小さく付け加えた。
「今はルシフェル様本人の意思を尊重するしかない、か」
諦めとも納得ともつかない声だった。
もう一人、扉の脇に天使ガブリエルが控えていた。
こちらはウリエルとは正反対に、生真面目な性格らしい。
「ウリエル様、任務中です。
これは観光ではありません。我々はルシフェル様を天界へ帰還させるために……」
「分かってるわよ。でもこのカフェ、良い香りするじゃない」
ウリエルはそう軽く受け流すと、運ばれてきたコーヒーを一息に飲み干した。満足そうに立ち上がる。
「……仕方ないわね。また来てあげるわ」
そう言い残し、ウリエルは店を後にする。
その背中は、任務に忠実な熾天使というより、気ままな旅人のようだった。
天界に籍を置きながらも、彼はいつも通りの問題児だった。
「毎度ありー。熾天使さん、またね」
マグナは普段の接客と何一つ変わらない態度で、ウリエルたちを見送った。




