天に触れた少女。
アケローン川の畔で語り合う老人二人。
「タナトス様も丸くなりましたなぁ」
カロンが懐かしむような声で言った。
「そう思うか?」
ハデスがふがふがと答える。
「昔のあの方なら……」
カロンは空を見上げる。
「誰かを拾うようなお方ではありませんでした」
ハデスははたと考え込む。
「だからこそ、気になるのじゃ」
「何があったのか」
◇
「次はあの監査官も本気で詰めてくるだろう」
タナトスが予測する。
「はい……」
アルネアは静かに俯いた。
「……ちゃんと話す時なのかもしれませんね」
「まぁお前が覚えている範囲でいいぞ」
目を閉じるアルネア。
彼女は当時幼かった。
すべてを覚えているわけではない。
それでも、忘れられない光景がある。
──舞台は、過去へ遡る。
天界で「記録抹消」が決まり、少女は消される事となった。
彼女は天界から落ちる。
続いて天使の軍勢が冥界に降り立つ。
倒れている少女を誰も助けない。
ただ白い羽だけが、空を舞っていた。
そこへ、死者を導く途中だったタナトスが足を止めた。
少女が脱力して言う。
「……わたし、死ぬんですか」
「いや」
「ここは死者の国だ」
「死ぬ場所ではない」
タナトスが前に出る。
次の場面では、
周囲だけ静かになっている。
天使たちは全員武器を落として膝をついていた。
「……終わったんですか?」
恐れと共に少女が言う。
「帰るぞ、名は?」
少女は震えながら答えた。
「……ルミ……エル」
「そうか」
タナトスは静かに頷く。
「だが、その名はもう必要ない」
少女が顔を上げる。
「……え?」
「お前は今日、天界から捨てられた」
「そして今、冥界にいる」
少しの沈黙。
「新しい名が必要だ」
タナトスは少女を見る。
「今日から、お前はアルネアだ」
タナトスが名前を与える。
「……アルネア」
少し間。
「でも、どうしてその名前なんですか?」
「んー」
「え?」
「いや、何でかな」
「えぇ……!?」
そして現在。
「でも、わたくしはこの名前が好きです」
「タナトス様が初めてくれたものですから」
そう言うとアルネアはぱんっと両手を叩いた。
「タナトス様が付けたアルネアって、どんな意味だったんですか?」
「いや、ルミエルとアルネア、似てない?」
「ルしかあってないような…」
「それに、アルネアの方がお前らしい」
アルネアは一瞬固まってから照れる。
「……ふふ」
「何だ」
「いいえー別にー♪」
「でも……冥界にとって私は、何百年も、何者か分からなかったんですねぇ」
「そうだな」
「隠していたんですか?」
「いや」
「分からなかったから、分からないまま記録しただけだよ」
「……」
「まぁ名前だけは必要だった」
「名前がなければ、存在として扱われないからな」
アルネアは胸元に手を当てる。
「だが」
タナトスは小さく息を吐いた。
「まさか、その空白を見つける者がいるとは思わなかった」
リュネ。
彼女の監査能力だけが、長年残された空白に届いたのだった。
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