空白の記録。
リュネが帰ったあと、アルネアはぽつりと呟いた。
「あのヒト、綺麗でしたね」
「そうだな」
「タイプですか?」
「そういう目では見てないよ」
「うー……」
「どうした」
「……手強い女が現れました」
アルネアは眉根を寄せて嘆いた。
数日後。
リュネがタナトスの元へ再訪する。
「アルネア様について、確認したいことがあります」
「わ、わたくしにですか」
「タナトス様の補佐官であるあなたについてです」
リュネは淡々と書類を開く。
「記録上、あなたの過去には不自然な空白があります」
「……」
「必要ない」
タナトスが割って入る。
「ですが監査対象です」
アルネアのいつもの笑顔が、一瞬だけ消えた。
「それ以上は、聞かないでください」
「なぜです?」
リュネの声は冷たいがよく通る。
「確認する必要があります。
記録にないものは、冥界では扱えません」
「でも、今ここにいる私は存在しています」
アルネアは反論する。
「監査終了だ」
タナトスが幕を引こうとする。
「まだ終わっていません」
「いや」
タナトスは続けて言った。
「私の補佐官については、私が一番知っている」
厳かな威圧感が、部屋の空気を震わせた。
「……分かりました。本日は帰ります」
リュネは静かに書類を閉じた。
◇
部屋に残った静寂。
「リュネさん、真面目で優秀ですね」
アルネアがしょんぼりと呟いた。
「んー、そうだな」
「あと……わたくしの過去」
アルネアが初めて不安そうに俯いた。
もし、この過去が原因で、
タナトス様の側にいられなくなったら。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
「アルネア」
「は、はい」
「私は今のお前を気に入っている」
「監査で過去を語る必要はない」
「ありがとうございますっタナトス様!」
アルネアは嬉しそうにタナトスに抱きついた。
◇
一人ポツンと冥界の小道を歩いて帰るリュネ。
アケローン川は緩やかに流れている。
渡し守のカロンが小舟で戻る姿を見かけ、リュネが声を掛ける。
「ご苦労さま、カロン」
「これはこれはリュネ様。お帰りで?」
カロンは冥界創世からアケローン川を守る古き存在だった。
「ええ」
少し歩くと、ハデスの宮殿が見えてくる。
「ハデス様。ペルセポネ様。リュネ、只今戻りました」
宮殿には、見目も麗しきペルセポネと、
黒いローブの骸骨──冥界を治める神ハデスが待っていた。
「タナトスの監査はどうでしたか」
ペルセポネが訊く。
「はい。一人、素性の分からない補佐官がおります。
魔族として登録された記録がありません」
「ですが、現在の魔力構造は悪魔とも異なる」
「恐らくは」
リュネは慎重に言葉を選ぶ。
「元天使、あるいは人間だった可能性が」
「しかし、必要最低限の記録しか残されていません」
「それは裏切りだと?」
「まだ分かりません」
「ですが、冥界の秩序において看過はできません」
「この件は、悪魔側の統括者であるサタン様にも判断を仰ぐ必要があります」
リュネは冷たく冴えた瞳で告げた。
◇
アケローン川の畔で、渡し守カロンは休憩していた。
そこに杖をつきながら、ふらりふらりと老人が歩いてくる。
リュネの報告を受けた後。
冥界の王は、静かに動き始めていた。
「隣、いいかね」
「ハデス様、お疲れさまっす。もちろんです」
「よっこらしょっと」
草木の茂る隣にハデスが腰を下ろす。
「この歳になると脚が痺れてのう。歩くのも一苦労じゃ」
「分かりますよ。あっしも早朝散歩で足腰鍛えてます」
「のう、カロ……ふがっ」
ハデスは言いかけて入れ歯が外れた。
慌てて入れ直す。
「すまん、入れ歯が外れてもうた」
「時の流れを感じますねぇ」
「お互い、よる年波には勝てんのう」
「ハデス様は不死じゃないんすか」
「そうじゃな」
「じゃが、長く生きれば疲れもする」
「永遠とは、若さが続くことではないからのう」
「ところで」
「カロンよ。タナトスの事じゃが──」
ハデスはゆっくりとカロンを見据えた。
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