悪魔王サタン、過労で倒れる。
冥界庁舎・深夜。
書類の山が、机の上を埋め尽くしていた。
蝋燭はとうに限界を迎え、溶けた蝋が机の端で固まっている。
その中心で──
悪魔王サタンは、椅子に座ったまま机へ突っ伏していた。
「……終わらん……」
かすれた声が、静かな執務室に響く。
悪魔たちが恐れる魔界の大魔王。
その現在の姿は、疲れ切った管理職だった。
静かに扉が開く。
「サタン様。夜分に失礼いたします」
入ってきたのはアスモデウスだった。
両手には、湯気の立つコーヒー。
「また残業ですか」
「……見れば、分かるだろう……」
「サタン様は働きすぎですよ」
「お前は働かなすぎだ……」
アスモデウスは机の上を眺め、静かに眉をひそめる。
「これは……」
アスモデウスは積み上がった束を見る。
「この量は……人間界のブラック企業でも見ないですね」
「人間界の企業と、比較するな」
余裕のないサタン。
アスモデウスは苦笑しながら、コーヒーを差し出した。
「どうぞ。マグナの店のコーヒーです」
「まだ通ってるのか」
「ええ」
アスモデウスは何でもないように答える。
「あと一つでポイントが貯まりますので」
「……」
サタンはため息をついた。
「……タナトスの監査が来る」
「だから書類を終わらせねばならん」
「なるほど……。納得しました」
アスモデウスは頷く。
「タナトス様はそりゃあ真面目なお方ですからね」
「ああ……」
「監査も、おそらく厳しいでしょう」
「分かっている……」
サタンは机に顔を伏せる。
「だが終わらんのだ……」
アスモデウスは呪言や古代文字の刻まれた書類の山を見上げた。
「これは……冥界の歴史そのものですね」
「だから終わらんと言っている……」
「サタン様は、冥界の歴史を背負っているのですね」
「……」
少しだけ感動しかけたサタンだった。
アスモデウスは、誰にも見えないように小さな魔法印を消した。
「では、私はこれで」
アスモデウスは丁寧に一礼した。
「サタン様、ご無理はなさらず」
「お前が言うな……」
扉が閉じる。
残されたサタンは、再び書類の山を見上げると、椅子から転げ落ちた。
「……悪魔王が……過労で倒れるのか……」
その時、
ドンッ!!
と庁舎の扉が勢いよく開いた。
「救護隊、入ります!!」
「!?」
(アスモデウスの奴か?)
赤い制服の悪魔たちが雪崩れ込んでくる。
担架、魔力点滴、蘇生魔法の準備まで整っている。
「サタン様、脈弱いです!」
「魔力残量、限界値です!」
「過労による魔力枯渇と判断します!」
「至急搬送を──!」
「待て!」
サタンは顔を上げる。
「悪魔王が……過労で運ばれるなど……! 部下に示しがつかん……!」
「サタン様、立ち上がれますか?」
「……」
沈黙。
「搬送します!!」
「やめろ……」
こうして魔界を支配する悪魔王は、
書類によって敗北した。
◇
しばらく後。
静まり返った庁舎の廊下。
アスモデウスは壁にもたれながら、コーヒーを飲んでいた。
届いた報告書を見る。
「やっぱり来ましたか」
「サタン様が倒れられたと聞きました」
舞妓風の装いをした女性が現れる。
「ええ。少し働きすぎまして」
アスモデウスは苦笑する。
女は静かに庁舎の奥を見る。
「……冥界の秩序が、少し乱れていますね」
「原因は、おそらく、あの記録簿でしょうかね」
「……」
女の瞳が細まる。
「監査は……予定より早めた方がよさそうですね」
アスモデウスは静かに笑った。
「冷める前に味見しておきませんと」
(これから、少し騒がしくなりそうだねえ)
深夜の冥界に、静かな変化が訪れていた。
読んでくれてありがとうございます。続きもゆるく楽しんでもらえたら嬉しいです。




