第081話「荒らした餌場」
上の継ぎ目まで逃げたあとも、削る音はしばらく下で続いていた。
あいつは標本庫を一周して、奥へ消える。冷気の強い切り替わりで戻り、弱い間に深い方へ抜ける。さっき上から見た動きは、だいたいそんな形だった。
次に狙うのは主じゃない。
標本庫の中身だ。
この層に馴染んだやつを食えば、この層で粘れる何かが拾えるかもしれない。まずはそこを狙う。
◇ ◇ ◇
黒玻璃の裂け目へ半身を押し込み、冬眠を使った。
相変わらず、気分は最悪だ。
眠るというより、熱を底へ沈める感じに近い。腹の芯が冷たく固まり、その代わり削られる速さだけが妙に鈍る。動いていない間だけは、たしかに効く。
ただし起き抜けは重い。
戦闘中にこれをやったら、そのまま食われる側だ。
待ち伏せ専用。用途はそれだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
削る音が遠ざかり、冷気の吹き上がりがひとつ弱まったところで起きる。
だるい。体が一枚遅い。
でも生きてる。まだ削られ切っていない。
黒玻璃の継ぎ目を滑り、凍結標本庫へ戻った。
今はもう、ここが保存される側の場所には見えない。資源置き場だ。
◇ ◇ ◇
食う相手は選んだ。
入口寄りの小さい死骸は飛ばす。狙うのは奥まで運ばれていたやつ、冷気に強そうな厚い殻や毛皮のやつ、それから主が途中まで食って残したやつだ。
まず、奥の段に押し込まれていた四脚の胴へ噛みついた。
硬い。冷たい。だが中身の詰まり方が違う。白い層の浅いところにいたやつより、肉の味がずっと濃い。
通知が二つ続いた。
『レベルが上がりました Lv1 → Lv2』
『レベルが上がりました Lv2 → Lv3』
いい。かなりいい。
まだ腹の下はキツいが、最初に白い面へ触れた時の「そのまま終わる」感じは少し薄い。
◇ ◇ ◇
次は、主の食いかけだ。
肩口から大きく抉られた中型の胴が、壁際に残っている。食われた断面がまだ新しい。ここまで運ばれて、主に一度噛まれたやつの方が、この層の深いところまで届いていた証拠でもある。
迷わず食う。
うまい。脂乗ってるわ。寒いところで生きてたやつらしく、肉の下に厚く乗っている。
通知がまた重なった。
『レベルが上がりました Lv3 → Lv4』
『レベルが上がりました Lv4 → Lv5』
かなり伸びる。
標本庫の奥にあるやつほど質がいい。やっぱりそうだ。
時間があるうちに、詰め込めるだけ詰め込む。
◇ ◇ ◇
主の巡回はまだ戻らない。
冷気の強い切り替わりが来る前に、もう一段奥へ入る。
黒玻璃の縁に寄せられていた厚殻の残骸、その隣の毛皮の塊、そのさらに奥に押し込まれた脚を、順に噛み砕いた。もう味を楽しむ段階じゃない。腹へ流し込む。とにかく食う。
通知がまとめて来る。
『レベルが上がりました Lv5 → Lv6』
『レベルが上がりました Lv6 → Lv7』
来た。
ここまで上がれば、もう白い層の浅いところで足を置いた瞬間終わる、ではない。
まだ足りない。でも、やっと殴り返す側には寄れた。
◇ ◇ ◇
削る音はまだ遠い。
なら、もう一段食う。
奥壁の裂け目へ押し込まれていた細長い胴を引きずり出した。半分は凍り切っているのに、芯の方だけ妙に重い。ここまで残っていたやつは、やっぱり質が違う。
頭から噛み砕く。冷たいのに、中は妙に柔らかい。脂が厚い。寒さの中で生きていたやつの肉だと分かる。
通知がまた重なった。
『レベルが上がりました Lv7 → Lv8』
『レベルが上がりました Lv8 → Lv9』
かなり来てる。
腹の奥が少し熱い。白い面へ腹をずらしても、すぐ戻りたくなる感じがだいぶ遅い。これなら線の外へ半身を出しても、前みたいにその場で終わりまでは行かない。
◇ ◇ ◇
その時、遠くで削る音が戻った。
まだ少し距離はある。
ここで退けば安全だ。
でも、奥の壁際にまだ二つある。ひとつは主が肋のあたりだけ食って残した厚殻の胴、もうひとつは霜の下に押し込まれていた白い脂の厚い塊だ。
どう見ても、どっちも一番いい側だ。
先に厚殻の方へ噛みついた。
硬い殻の内側だけが妙に柔らかい。凍っているのに、奥へ行くほど味が濃くなる。通知が二つ走った。
『レベルが上がりました Lv9 → Lv10』
『レベルが上がりました Lv10 → Lv11』
まだ行ける。
削る音が近い。分かってる。分かってるのに、口が次を選んだ。
白い脂の塊へ歯を入れる。
冷たいのに脂が重い。食ったあとまで体に少し残る。今までの死骸より、明らかにこの層に慣れている。
通知が弾けた。
『レベルが上がりました Lv11 → Lv12』
『冷気耐性 Lv2 になりました』
うお、来た。
やっと来た。
めちゃくちゃ欲しかったやつだ。
腹を凍った岩棚へ押しつける。まだ冷える。けど違う。削られるだけじゃない。踏んだまま、次の角度を考える余裕がある。
これなら白い面の上でも、一手は返せる。
そう思った瞬間、削る音が急に近づいた。
◇ ◇ ◇
戻るのが速い。
白い霧の流れが逆立つ。標本庫の棚を撫でていた冷気が、一段深く重くなった。
ブリザードバジャーが入口側で止まる。
鼻先が低く動いた。崩れた配置。減った奥の餌。新しい血の匂い。
気づいた。
ただ獲物を見つけた顔じゃない。
餌場を荒らされた捕食者の顔だ。
やばい。完全に怒ってる。
◇ ◇ ◇
逃げるか、と一瞬だけ考えた。
でも足はもう黒玻璃の継ぎ目から外れていた。今の冷気耐性なら、前みたいに白い面へ腹が乗った瞬間終わりじゃない。
それに、ここでまた背中を見せたら、次も同じだ。
ブリザードバジャーの前脚が黒玻璃を噛む。
一瞬だけ止まる。
その止まり方を、今度はこっちから取りに行く。
帯電鱗を鱗の表へ寄せた。白い火花が、細く腹の下を走る。
白い巨体が、今まででいちばん深い冷気圧と一緒に標本庫へ踏み込んできた。




