第080話「白い巨体」
棚の奥へ引かれていった死骸が、鈍く転がる音を立てた。
白い巨体は、その場で少しだけ向きを変えた。迷いがない。小さい死骸は上の段へ、途中まで食った中型の胴はもっと奥へ、凍り切って硬いのは壁際へ押しやる。
最後に、奥壁の霜を前脚で掻いた。
ごり、と鈍い音が鳴る。氷と黒玻璃が一緒に削れる。さっきから下で鳴っていた、あの嫌な音だ。前脚の長い爪で壁ごと削り、隙間へ死骸を押し込んでいる。
並べている、というほど丁寧じゃない。
でも置き場所は決まってる。
やっぱりここは偶然の食い残しじゃない。あいつが戻ってきて、食って、残して、また使う場所だ。
◇ ◇ ◇
全身が見えた。
白い獣だ。頭は低く広い。首は短い。肩が異様に盛り上がっていて、前脚だけやたら太い。胴は詰まっているのに、爪だけが長い。棚の縁を掴むたび、黒玻璃へ鉤みたいに食い込んで氷の粉が散った。尾は短いが、後ろ足と腰が重い。
そのくせ、動きは鈍くない。
俺が必死に繋いでいる黒玻璃の継ぎ目と青い筋を、あいつは辿っていない。凍った面の真ん中を普通に踏む。冷気の強い吹き上がりが来た瞬間ほど、むしろ踏み込みが深くなる。
この層でちゃんと動けるのは、あっちだ。
◇ ◇ ◇
白い獣は、標本庫の奥側へ顔を向けた。
その先で、またあの乾いた古い圧が少し濃くなる。
見送れなかった。
今は戦う気はない。だが、あいつがその先へ出入りしてるなら、そこは竜骨側へ続く道でもある。
黒玻璃の継ぎ目へ腹を乗せたまま、距離だけ少し詰める。
白い獣が前脚を黒玻璃に噛ませ、体を持ち上げた。そこで一瞬だけ止まる。次の瞬間には、凍った面を跨いで別の棚へ移っている。
爪で留める時だけ、巨体が止まる。
喉の下も見えた。腹側まで真っ白ではない。そこだけ霜が薄い。
もう少し寄れば、鑑定が届く。
そこで、やめておけばよかった。
黒玻璃の継ぎ目を半身だけ滑る。冷気の弱い間に、一歩だけ詰める。
今なら通る。
ブリザードバジャー Lv24
冷気耐性Lv3/氷爪Lv3/掘削Lv2/氷壁走行Lv2/冷気纏いLv2
来た。
名前も分かる。爪と壁削り音の正体もこれだ。白層の真ん中を踏める理由も、近づくだけで冷気が重くなる理由も揃ってる。
◇ ◇ ◇
冷気が、急に強くなった。
下から吹き上がる流れが太くなる。凍った面の中央が、さっきまでよりもっと危ない。それだけじゃない。あいつの周りだけ、冷気がもう一段重い。
同時に、ブリザードバジャーの頭がこっちを向いた。
まずい。
距離を詰めた分だけ、完全に隠れ切れていなかった。
次の瞬間、白い巨体が来た。
速い。
大きいくせに、冷気の強い切り替わりに合わせて一気に踏み込んでくる。凍った面の真ん中を裂くみたいに走り、長い爪が棚を掴み、そこからもう一段伸びた。
雷走。
黒玻璃の継ぎ目へ逃がす。だが、継ぎ目の幅が細い。半身でも外せば終わる。凍った面へ腹が乗った瞬間、こっちの速さだけ露骨に死んだ。
差がでかい。
◇ ◇ ◇
前脚が振り下ろされる。
真っ直ぐじゃない。黒玻璃の縁を削り、逃げる線を潰しながら来た。狩り方が雑じゃない。俺が通る場所を知っていて、そこを先に壊しにくる。
ぎりぎりで身を捻った。肩の鱗が裂ける。浅い。でも軽くはない。
そのまま横腹へ体を擦りつけた。
帯電鱗。
白い火花が走る。
通る。筋肉は確かに跳ねた。
でも止まらない。
ブリザードバジャーは前脚を少しぶらしただけで、そのまま体重ごと押し込んできた。小型相手なら止まる痺れが、こいつには少し邪魔なだけだ。
短放電も重ねる。
今度は爪が黒玻璃を噛んだ瞬間に合わせた。ぴし、と強めに走る。前脚が一瞬だけ止まった。
やっぱりそこだ。
爪で留める瞬間だけ、巨体も無視できない。
◇ ◇ ◇
だが、それでも足は止まらなかった。
ブリザードバジャーは止まった前脚を捨てるみたいに体を捻り、後ろ足で棚を蹴り砕いた。凍った岩棚が割れ、白い粉が跳ねる。冷気の吹き上がりまで重なって、視界が白く潰れた。
喉下が見える。
霜が薄い。
でも、今はそこまで届かない。
俺は雷鱗蛇だ。速さも雷も取った。けど、この層の本命にはまだ届かない。まだこの層で勝てる側には回れていない。
ここでは、俺が必死に辿る安全線すら、あいつには足場の一部でしかない。
◇ ◇ ◇
撤退に切り替えた。
次の吹き上がりが弱まる瞬間を待つ。ブリザードバジャーは冷気の強い切り替わりに合わせて踏み込むが、弱い時は必ず黒玻璃へ爪を掛け直す。その一瞬だけ圧が抜ける。
来た。
雷走で継ぎ目を滑る。青い筋へは乗らない。凍った面の中央も切らない。さっき削られた縁のさらに外、まだ残っている黒玻璃だけを拾う。
背後で爪が鳴る。
追ってくる。
だが、標本庫の奥へ顔を向けた時ほどじゃない。あっちへ戻る線だけ、こいつは露骨に警戒が強い。
やっぱりその先を使ってる。
乾いた古い圧が続く方向と、こいつが守るように行き来する方向が同じだ。
◇ ◇ ◇
ひとつ上の継ぎ目まで戻って、ようやく息を抜いた。
勝てない。今はまだ無理だ。
でも、空振りじゃない。
冷気の強い切り替わりに合わせて踏み込む。黒玻璃に爪を噛ませる瞬間だけ止まる。喉下と腹側は霜が薄い。標本庫の奥へ通う線は、刻印の広間で触った竜骨の先と無関係じゃない。
次に狙う場所は、もう見えた。




