第079話「凍結標本庫」
下で鳴っていた削る音は、途切れず続いていた。
追う気はない。今の俺がやるのは、あいつに会いに行くことじゃない。この層で止まらずに動ける場所を増やすことだ。
黒玻璃の継ぎ目から青い筋へ。青い筋から次の継ぎ目へ。
さっき掴んだ線を、今度は一段深く辿っていく。
◇ ◇ ◇
下るほど、線の揃い方が露骨になった。
黒い継ぎ目は同じ幅で折れ、青い筋はその角をなぞるみたいに残っている。足を置ける場所だけが細く続き、その外は白く凍った岩棚が広く口を開けていた。
ここ、本当に自然洞窟か?
そう思った直後、線が少しだけ開けた。
白く凍った岩棚が段々に並ぶ、少し広い空間だ。棚と棚のあいだを、冷気が下から吹き上がっている。中央へ寄るほどキツい。黒玻璃の継ぎ目は壁際を回り、青い筋は各段の縁だけを細く残していた。
進める場所が、分かりやすすぎる。
◇ ◇ ◇
その段の上に、死骸があった。
ひとつじゃない。小型の蜥蜴型、鼠型、脚の多いやつ。中型の胴も混じっている。全部が白く凍りつき、棚ごとに固まって残っていた。
最初は、寒さでそのまま止まっただけかと思った。
違った。
向きが似ている。傷も似ている。首の根元を潰されたやつ、腹を裂かれたやつ、横腹を深く削られたやつ。しかも、その多くが棚の奥へ寄せられている。
棚の縁には、重いものを何度も擦った跡が残っていた。霜が剥げ、黒玻璃が鈍く露出している。死骸の下にも、引きずった筋がある。
落ちて凍っただけなら、こんな揃い方はしない。
◇ ◇ ◇
反響定位を打つ。
返ってきた音で、棚ごとの詰まり方が分かった。
入口寄りの段には、小さい死骸が多い。少し奥には、冷気耐性がありそうな厚い殻や毛皮のやつが止まっている。さらに奥の棚には、途中まで食われた中型の胴が残っていた。
全部が同じところまで届いていない。
白層そのもので、ここまで選別している。
寒さに耐えきれないやつは、途中で止まる。止まったやつから、上に残る。少し耐えたやつは、もう一段奥で止まる。
その残りを、あいつが拾う。
なるほど。止める役がいるんじゃない。この層が勝手に落として、その下で食うやつが住み着いてる。
最悪だ。
寒いだけで終わらない。止まったら、そのまま保存して食われる。
◇ ◇ ◇
棚の裏で、かすかな反応がした。
まだ生きている。
死骸の陰へ頭を差し込む。霜の下で、小さな毛玉みたいなやつが丸まっていた。息は細い。ほとんど止まって見える。
鑑定を向ける。
フロストマウス Lv9
冷気耐性Lv1/冬眠Lv1/逃げ足Lv1
そういう方向か。
こいつは戦うんじゃなく、止まってやり過ごす側らしい。
今は起きない。噛める。
首元へ牙を入れた。抵抗はほとんどない。軽い。
◇ ◇ ◇
食う。
肉は薄い。冷たいというより、味が薄い。さっきのフロストゲッコーみたいな張り詰め方がなく、最初からぐったりしている感じだ。
通知が来た。
『冬眠 Lv1 を獲得しました』
寒いからって寝て解決するのは生き物としてどうなんだ。
……いや、ここで寝たら保存される側だろ。
試しに意識を向ける。
すぐ分かった。熱の抜け方は少し鈍る。だが、その代わりに体が露骨に重くなる。動くためのスキルじゃない。隙間に籠もって、ひたすら時間を飛ばすためのやつだ。
地味だし、今の俺にはかなりいらない。
白層の中でじっと耐えるだけなら使えるかもしれないが、ここは止まったやつから拾われる層だ。相性が悪すぎる。
◇ ◇ ◇
標本庫の奥側は、さらに冷えていた。
死骸の匂いの下に、別の古さが混じっている。乾いた匂いだ。熱でも冷気でもない、もっと古い匂いが鼻の奥に残る。
青い筋の先、霜の下に白金色の大きめの欠片が埋まっていた。
骨か、鱗かはまだ分からない。
だが、竜威を無理やり通した時に似た圧が、ほんの薄く残っている。
この標本庫の奥は、ただ主の食い溜めってだけじゃない。
刻印の広間で触った竜骨と、無関係じゃない何かがまだ先にある。
◇ ◇ ◇
その時、重い削る音が一段近づいた。
氷を引きずる音。棚の縁を擦る音。さっきまで下で反響していたやつが、もうこの空間のどこかまで来ている。
すぐ黒玻璃の継ぎ目へ腹を戻し、棚の陰へ半身を伏せた。
冷気の流れが、一瞬だけ変わる。
白い霧の幕が揺れた。
見えたのは、全身じゃない。
棚一枚ぶんはある白い巨体の端だけだ。霜をかぶった曲面が横切り、その先の長い爪だけが黒玻璃を噛む。凍った死骸が一本、奥へずるりと引かれていった。




