第076話「先にいたもの」
ランドルフ班が灰牙に着いたのは、日が高くなる前だった。
「おう、案内役。生きてる顔してるな。そりゃいい」
声がでかい。笑いもでかい。背も肩も一回り大きくて、見た目だけなら豪快そのものだった。
だがランドルフが最初に見たのは、カイルたちの顔ではない。入口脇に積んだ水樽の数、地図の折り目、第3層で休める岩棚の位置、それから撤退用に置いた予備ロープだった。
「深部手前までです。そこから先は、帰ることを優先しました」
カイルがそう言うと、ランドルフは笑ったまま頷いた。
「そりゃ正しい。生きて帰って報告した時点で、お前らの仕事はできてる」
その一言で、マルトの肩が少し下がった。リーナは何も言わなかったが、視線だけランドルフへ向けた。
「道は歩きながら聞く。先に見るのは足場だ。熱で崩れる岩棚と、戻る時に使う継ぎ目。そこを外すと話にならん」
豪快そうに見えて、最初に出てくるのがそこかと、カイルは少しだけ驚いた。
◇ ◇ ◇
第4層は、入った瞬間に空気が違った。
第3層までの熱気とは質が違う。肺に入る前から喉が焼ける。壁の赤黒い筋があちこちで明滅し、床のひびから熱が噴くたび、足場ごと揺れた。
「これ、本当にC級迷宮なんですか」
マルトが小さく言った。
「入口の看板だけならな」
ランドルフは軽く返したが、すぐ足を止めた。右手の壁際にしゃがみ込み、焼けた岩の継ぎ目を指でなぞる。
「ここ、前からこうだったか」
「いえ。前に来た時より、割れが深いです」
リーナが短く答える。
「じゃあ、最近ここででかいのが暴れてる。前だけ見て歩くな。退く岩棚を先に覚えろ」
ランドルフはそう言ってから、先頭に立つでもなく、カイルたちの半歩前を横にずれた。前に出すぎない。だが視線だけは常に一番先へある。
その動きが、カイルには妙に印象に残った。勢いで踏み込んでいるように見えて、実際には一歩ごとに帰り道を拾っている。
◇ ◇ ◇
深部へ近づくほど、崩れた岩棚が増えた。
床の割れ方が不自然だった。熱で脆くなったというより、何か重いものが同じ場所を何度も叩いた跡に見える。ランドルフはそのたびに立ち止まり、裂け目の角度と、落ちた先の空間を確認した。
「カイル」
リーナが声を落とした。
「前。熱の流れが切れてる」
通路の先だけ、妙に静かだった。熱が消えたわけではない。強い熱源が一つ、そこで止まっている。
ランドルフが手を上げる。
「そこで止まれ。先に岩棚を見る」
まず見たのは死骸ではなく、手前の足場だった。左の岩棚は半分崩れている。右壁の継ぎ目は残っている。退路は後方の高い岩棚ひとつ。そこを確認してから、ようやくランドルフは先を見た。
カイルも続いて、息を止めた。
巨大な死骸が、通路を半分塞ぐように横たわっていた。
赤黒い鱗はところどころ焼け焦げ、頭骨の張り出した輪郭だけで圧がある。口は半ば開いたままで、並んだ牙の一本一本が短剣みたいに太い。生きて動いていたなら、それだけで岩棚ごと押し潰せたはずだった。
「……インフェルノリザード」
カイルの声が、自分でも少し掠れた。
ランドルフは死骸の正面には立たない。手前の継ぎ目にしゃがみ込み、次に喉下、腹側、崩れた足場を順番に見た。
「でけえな」
最初の一言は軽かったが、そのあとが続かない。ランドルフの目が、傷の入り方を追っていた。
リーナが静かに言う。
「頭部の正面に大きい破壊痕はありません。喉下と腹側に集中しています」
「前脚も浅いな」
ランドルフが答えた。
「真正面から削ってねえ。倒すための傷が、前じゃなく下に寄ってる」
マルトが死骸の手前で顔をしかめた。
「焦げた匂いの下に、別の臭いがあります。熱だけじゃない。内側から先に駄目になった時の臭いです」
ランドルフが頷く。
「毒も入ってるな。しかも長く張りついて削った感じじゃねえ。短く入って、すぐ離れてる」
崩れた岩棚の先へ視線をやる。
「こいつ、足場を使われてる。継ぎ目の上で空振りさせて体勢を崩し、その下へ通した。人間の討伐なら、もっと正面から削るし、ここまできれいに喉下へ寄せん」
ランドルフはそこで、ようやく言い切った。
「これは人間のやり方じゃねえ」
カイルは死骸を見たまま、喉が乾くのを感じた。
自分たちが第4層で音だけ拾っていた層主を、誰かがもう倒している。そしてその誰かは、ランドルフが見ても人間じゃない。
◇ ◇ ◇
死骸の先で、通路の色が変わっていた。
赤い焼け岩の先が、黒く溶けて固まったみたいな艶を持っている。壁にも床にもガラス質の膜が走り、その奥で青白い火花が一瞬だけ跳ねた。
リーナが目を細める。
「熱の流れが変です。上からじゃなく、下から冷たいものが上がってきてる」
その言葉とほぼ同時に、カイルも頬に触れる空気の違いに気づいた。熱風じゃない。薄いが、はっきり冷たい風が、黒い通路の奥から流れてくる。
マルトが思わず一歩下がった。
「熱の下に白い層があるって話、あれ……」
ギルドの古記録に残っていた断片。灰牙の古名、熱の下に白い層、その奥に王座があるという与太話。あの時は半分も信じていなかった。
ランドルフが、いつもの大声より少し低い声で言った。
「古記録が当たりなら、この迷宮は奥で顔を変える」
黒玻璃の回廊を見たまま、言葉を継ぐ。
「笑い話じゃ済まんな」
◇ ◇ ◇
リーナが探知を広げた。
数秒の沈黙のあと、首を振る。
「近くに大きな反応はありません。少なくとも、この周辺にはもういない」
「先に進んだってことか」
カイルが言うと、マルトが乾いた唇を舐めた。
「あの蛇が、ですか」
「蛇かどうかまでは断たん」
ランドルフはそう言ってから、もう一度だけ黒い奥を見た。
「だが、こいつを倒した何かはここで止まってねえ。もうその先にいるかもしれん」
それでも足は出さない。
ランドルフは死骸と継ぎ目と退路を一度で見渡して、踵を返した。
「追わん。分からんもんに正面から入らない。今日の仕事は十分だ。ここまでで持ち帰る」
豪快そうに見えて、引く判断が早い。そのことが、かえってこの先の危険をはっきりさせた。
「カイル。ここまで案内して生きて立ってる。それで十分働いてる」
「……はい」
短く返しながら、カイルはもう一度だけ黒い奥を見た。
熱の底から冷たい風が上がってくる。その先にある白い層へ、人間はまだ踏み込めない。
だが、自分たちが足を止めたその先へ、先にいた何かはもう進んでいるのかもしれなかった。




