第077話「冷気の層」
冷たい、じゃない。
熱を抜かれる。
黒玻璃の通路をさらに下った瞬間、腹の鱗の裏から温度がごっそり持っていかれた。気持ちいい冷えじゃない。動きが止まって、そのまま死ぬやつだ。
◇ ◇ ◇
振り返れば、後ろはまだ赤い。
帯雷鉱脈の細い火花が黒い壁を走り、熱風が背中側だけを撫でていく。だが前は白かった。黒い通路の縁から先だけ、棚も壁も白く曇っている。霜というには厚く、氷というには濁っている。青い筋がその下で鈍く光り、熱感知の色は一段低いまま戻らない。
熱の下に白い層。
本当にあったらしい。
試しに腹を半分だけ乗り出した。
すぐ戻した。
腹面から首の下まで、一気に動きが重くなる。痛いわけじゃない。ただ遅れる。噛みつく時にその一瞬がずれたら、ここではそのまま終わる。
熱体を腹の鱗へ薄く通した。少しだけましになる。だが焼け石に水だ。触れている面だけは誤魔化せても、冷気そのものは体の隙間から入ってくる。
第4層は、先に触れば勝てた。
ここは違う。先に、動ける時間を確保しないと始まらない。
◇ ◇ ◇
白く凍った岩棚が、壁沿いに段を作っていた。
全部が凍り切っているわけじゃない。黒玻璃の割れ目がところどころ残り、その縁だけわずかに熱が滲んでいる。生き残るなら、あの筋を辿るしかない。
最初の棚までは4メートルほど。
雷走。
黒い縁を蹴った瞬間、体が軽く前へ飛ぶ。速さはいい。問題は着地したあとだった。
凍った岩棚に腹が触れた途端、冷えが一気に這い上がってきた。さっきより深い。鱗の隙間へ薄い刃を差し込まれるみたいに、動きだけが鈍る。
長くいられない。
そう思った直後、凍った岩棚の裏から何かが飛んだ。
白い。
細長い胴に短い脚。壁を這うための平たい指。第4層の蛇みたいな速さじゃない。だが距離が短い。冷えた空気の中を、一発で喉元まで届く。
避け切れない。
首の横へ浅く噛みつかれた。
痛みより先に、噛まれた場所から冷える。
まずい。
鑑定を走らせる。
フロストゲッコー Lv11
冷気耐性Lv1/壁走りLv2/咬撃Lv2
やっぱり耐性持ちか。
この層で平気な顔をして動いているなら、まず耐性持ちだと思った。嫌な読みだが、外れてくれなかった。
フロストゲッコーが首筋に噛みついたまま、体を捻る。浅いまま削るつもりだ。第4層の短接触とは逆で、こいつは噛みついたあとに冷えを流し込んでくる。
なら、そのまま返す。
短放電。
ぴし、と首の横で白い火花が弾けた。
フロストゲッコーの体が震える。噛みつきが一瞬だけ緩んだ。そこを振りほどいて、黒玻璃の縁まで一気に戻る。
助かった。
かなり危なかった。
◇ ◇ ◇
黒い継ぎ目の上なら、まだ考えられる。
首を振って感覚を確かめる。完全に固まってはいない。だが、さっき噛まれた場所だけ冷えが残っている。ここで無理に突っ込めば、次は動かなくなる方が先だ。
フロストゲッコーは追ってこなかった。
凍った岩棚の裏、霜のついた影に張り付いている。黒い縁までは出ない。あいつらも分かっている。少しでも温度が残る場所を踏むと、自分の強みが薄くなる。
なら、狩り方は決まる。
先に深く行くんじゃない。ここのやつを食う。
寒さの中で動けるやつを食って、寒さの中で動ける時間を増やす。
分かりやすくて助かる。
◇ ◇ ◇
凍った岩棚の縁へ、腹を半分だけ出した。
冷える。実際キツい。演技をする余裕もない。だが、完全には乗らない。後ろ半分は黒い継ぎ目に残す。熱体も喉と腹の接触面だけに絞る。無駄に使う余裕はない。
少し待つと、白い影が動いた。
来る。
フロストゲッコーは正面からじゃない。棚の裏を回って、俺の死角寄りから跳んできた。距離の詰め方が短い。速さで上を取るというより、近い位置から決めにくる形だ。
だから、最初からそこを見る。
跳んだ。
その瞬間に、雷走で半歩だけずれる。
フロストゲッコーの牙は腹の端を掠めただけで深く入らない。代わりに、俺の鱗が相手の首へ押し当たる。
帯電鱗。
ぴし、と今度は腹側で弾けた。
フロストゲッコーの体が硬直する。
そこを逃さない。
尾を回した。細い胴に一周だけ巻きつき、前脚ごと締める。
締め付け。
小さい相手なら、今の体でも十分入る。凍った岩棚に張り付く指を先に潰せばいい。
巻いた腹側へ、もう一度帯電鱗を寄せる。
ぴし、ぴし、と近い場所で火花が跳ねた。フロストゲッコーの平たい指が棚を掻く。だが力が入らない。
いい。噛まなくても止まる。
短放電。
今度は巻いたまま流した。フロストゲッコーの体が強く跳ねる。前脚が凍った岩棚から剥がれた。
そのまま引き寄せて、棚の硬い縁へ叩きつける。締め付けを一段だけ強めた。
細い胴が軋んで、動きが止まる。
◇ ◇ ◇
すぐ黒い継ぎ目まで引き戻した。
食う。
冷たい。というより、感覚が薄くなる。舌の先が痺れるのに近いが、雷の痺れみたいな跳ね方じゃない。じわじわ広がって、口の奥だけが鈍く残る。
通知が来た。
『冷気耐性 Lv1 を獲得しました』
よし、来た。
寒かったからまじででかい。今ほしいのはこれだ。
◇ ◇ ◇
もう一度、凍った岩棚へ出た。
さっきと同じ場所。だが感触が違う。冷たいのは変わらない。腹の下から熱が削られるのも同じだ。けれど、いきなり体が止まるところまでは行かない。首を上げる余裕がある。噛みつく角度を考える時間も残る。
これなら死ぬ前に判断できる。
凍った岩棚はその先で階段みたいに下へ続いていた。ところどころに黒い筋が残り、青い霜の下を細く走っている。全部真っ白じゃない。下るための線はある。
反響定位を軽く打つ。
返ってきた音が、下の空洞の広さを教えた。縦に深い。凍った岩棚が何段も折れ、その先で一気に開けている。
その奥で、一度だけ重い音がした。
氷をずらすみたいな、低く鈍い音だ。
インフェルノリザードほど荒くない。ハイフレイムサーペントみたいな速さもない。だが重い。でかい。今の俺より、確実に向こうの方がこの層に馴染んでいる。
Lv1で足りる相手じゃない。




