第050話「空白地帯」
主の巡回が来ない。
朝から拠点で待った。いつもなら1回目の通過がある時間帯を過ぎても、振動感知に重い圧が入らない。
昨日、人間を追いかけて北西に消えた。あれから戻っていないのか、巡回ルートが変わったのか。どちらにしても、安全時間の計算が成り立たない。
待つか、動くか。
動いた。
泥底を南東に這った。いつもなら主の通過を確認してから出発するが、今日は確認できない。振動感知の感度を最大にして進む。少しでも重い振動を感知したら即座に戻る。
南東へ向かう理由がある。昨日、主は人間を追って北西に去った。南東方向——主の巡回路——は今、空いている可能性が高い。普段は近づけない場所に入れる。
◇ ◇ ◇
棚が崩れた区間を通過した。昨日の痕がそのまま残っている。壁面の引っ掻き傷。散乱する岩の破片。泥底の水位が乱れたまま戻っていない。
その先に、人間のキャンプ跡があった。
棚の上に登った。天幕を張っていた杭が数本残っている。荷物が散乱していた。革の袋。金属の容器。折れた矢が3本、棚の端に転がっている。布の切れ端に血の匂いがついていた。誰かが怪我をした。
急いで逃げた跡だ。武器も荷物も回収せず、人間だけが北西に走った。
革の袋の中身を嗅覚強化で確認した。干した肉と穀物の匂い。前世の記憶が反応した。保存食だ。食べたいとは思わないが、知っている匂いだった。
袋の底に金属の板が1枚入っていた。丸い。片面に刻印がある。剣と盾を交差させた紋章。ギルドか騎士団の所属を示すものだろう。裏面に文字が刻まれている。読めない。
もう一つ。薄い板状のものが別の袋に入っていた。紙だ。広げると、線と印が描かれている。
……地図だ。
読めない。文字が読めない。人間だった時なら読めたのか、これ。
だが線の形は分かる。通路の分岐。広い空間。狭い隘路。棚の段差。この層の構造を上から描いたものだ。俺が40日以上かけて体で覚えた地形が、1枚の紙に収まっている。
南東の端に、下向きの矢印と太い線がある。矢印の先に文字が書いてある。読めないが構造は分かる。下に続く通路だ。
位置は、主の巡回路の先。
◇ ◇ ◇
地図の線を頭に入れた。紙は持てない。だが蛇の脳は視覚情報を正確に保持する。一度見た地形は忘れない。
南東へさらに進んだ。主の巡回路を横切る。ここを通るのは初めてだ。壁面に蟲の痕跡がほとんどない。主が定期的に通過するこの区間では、蟲が住み着けない。空白地帯だ。
通路が狭くなった。棚がなくなり、泥底が浅くなる。壁面の質感が変わった。湿った泥岩から、乾いた硬い石へ。空気の匂いも違う。泥と腐敗の匂いが薄れ、石と鉄錆の匂いが混じる。
下り坂。
通路が下向きに傾斜している。泥底が消え、乾いた石の床になった。壁面にうっすらと結晶のような光点が散らばっている。
この先が、次の層だ。
入口の手前で止まった。反響定位を使った。乾いた石の通路に音が反射する。泥底と違って反響がよく通る。先は長い。少なくとも50メートル以上の下り通路が続いている。
空気が乾いている。この体で乾燥した環境は不利だ。沼喰大蛇は泥底に適応した種族だ。泥がない場所では、接地面の利点が消える。だが壁走りはどこでも使える。
引き返した。今日は場所を確認するだけでいい。
———振動感知に、重い圧が入った。
南東から。遠いが、近づいてきている。主が戻ってくる。
体を反転させた。全速で泥底を北西に這い、壁走りに切り替えて棚を駆け上がり、壁面の窪みに体を押し込んだ。
振動が通過していった。規則的な重い圧。巡回に戻っている。だが以前よりリズムが速い。間隔が短くなっている。刺激された後の警戒か。
主が通り過ぎてから、壁面を降りて拠点に戻った。
体を丸めた。頭の中で、地図の線をもう一度なぞった。
次の層への通路は南東の端にある。主の巡回路の先にある。主が通らない隙に通り抜けるしかない。巡回のリズムが変わった。あと1日か2日、新しいパターンを観察すればタイミングが読める。
次の層が見えた。いつ行くかの問題だ。




