第121話 「龍宮の一夜」
入口の外で、牙獣の足音が遠ざかった。
完全に消えたわけではない。岩場の陰や低い斜面には、まだ爪が小石を擦る音が残っている。振動感知でも、入口の外をうろつく小さな震えがいくつも拾えた。
ただ、牙獣たちが入口へ突っ込む勢いは折れた。
俺は黒玻璃の入口をさらに細くした。外の空気と音は入る。だが、ファングウルフの頭は入らない。タスクボアなら鼻先も無理だ。
入口をこの幅まで狭めれば、奥の避難民へ牙は届かない。
◇ ◇ ◇
広間の奥では、避難民が火の周りに集まっていた。
小さな火は黒玻璃の床をぼんやり照らしている。水場へ向かう床には、カイルが木片と布を置いて目印を作っていた。怪我人の近くにはマルトが座り、リーナは入口側の壁際で弓を抱えて外の音を聞いている。
ミラは子供を抱えていた。
その子供は、さっきまで泣いていた。今は泣き疲れた顔で、ミラの腕の中に頬を押しつけている。
別の子供も、年寄りの膝に頭を乗せている。まだ肩は震えているが、目は半分閉じていた。
……寝られるのか。
ここは迷宮だ。普通なら、人間が横になって休む場所じゃない。しかも入口の外には、さっきまで牙獣が群がっていた。
牙獣が外にいる状況でも、子供は眠りかけている。
俺が入口にいるからだ。
いや、自分で言うとだいぶ変だな。昨日まで、人間に見つかったら狩られる側だった。今は俺の迷宮の奥で、人間と亜人が寝ようとしている。
展開が急すぎる。
ゲームなら、章タイトルが変わるくらいのイベントだろ。
◇ ◇ ◇
ミラが顔を上げた。
「アステル、外は?」
『すぐには入ってこない。入口は牙獣の頭が入らない幅にしてある』
「じゃあ、今は……」
『眠れるやつは寝かせろ。入口に近づいた牙獣は俺が止める』
ミラは小さく息を吐いた。
その息で、抱えられていた子供の肩から少し力が抜ける。
エドルは祭壇から持ってきた石片を、広間の壁際に置いていた。老人の指は震えている。それでも、石片の前に座る背中は崩れなかった。
祈っているのかもしれない。
前なら、俺には関係ないと流していた。実際、祈られても腹は膨れないし、レベルも上がらない。
ただ、祭壇で俺を見ていた連中が、今はこの広間で震えながら休もうとしている。
祭壇で祈っていた連中へ、少しくらいは返したくなった。
前世が人間だったせいかもしれない。泣いている子供や、血をにじませた怪我人を見ると、完全に餌として割り切る気にはならない。
俺は魔物になった。
だが、前世の残りかすまで消えたわけじゃないらしい。
◇ ◇ ◇
カイルが入口近くまで来た。
「見張りを分ける。俺とリーナが入口寄り、マルトは怪我人、ミラとエドル殿は子供と年寄りを見る。この配置でいいか」
『その配置で頼む。俺は入口の前から動かない』
「お前は休まなくていいのか?」
『冬眠ならあるが、今ここで寝たら守り神じゃなくて置物になる』
カイルが一瞬だけ変な顔をした。
笑いをこらえた顔だ。
やめろ。俺だって言ってから思った。冬眠持ちの守り神、字面が弱すぎる。
理由は冬眠の情けなさだけじゃない。
今の俺の力は、レオガルドには届いていない。
入口の幅を使えば、タスクボアとファングウルフは止められる。牙獣が一体ずつ来るなら、この場所は餌場にできる。
だが、獅牙王本人が来たら話は別だ。
あいつは西門で俺を押し切った。今の俺が入口にいるだけで勝てる相手じゃない。次に必要なのは、群れを押している個体を食うことだ。牙獣の数を減らすだけじゃなく、群れの動きを決めるやつを見つけて潰す。
その前に、ここで避難民を一晩もたせる。
◇ ◇ ◇
夜の間に、牙獣は何度か入口へ近づいた。
最初に来たファングウルフは、入口の隙間へ鼻先を寄せた。俺が前脚を一歩出すと、そいつは牙を鳴らして後ろへ下がった。
次は、岩場の上から別のファングウルフが広間を覗いた。リーナが弓を持ち上げるより先に、俺が喉を鳴らす。牙獣は黒玻璃の縁を爪で引っかき、そのまま外の斜面へ戻った。
こいつらも馬鹿じゃない。
入口の内側へ入れば食われると分かったから、距離を取って様子を見ている。
牙獣が広間へ入らないなら、今夜の守り方は合っている。
今夜は、無理に外へ出ない。入口に来たやつだけ止める。広間の奥で眠っている子供と怪我人へ牙を届かせない。
広間の奥へ牙を届かせなければ、この夜は勝ちだ。
◇ ◇ ◇
火が小さくなるころ、広間の空気が変わった。
さっきまで続いていたすすり泣きが減り、かわりに浅い寝息が増えていく。怪我人の荒い呼吸も、マルトが水を飲ませたあとは少し落ち着いた。
ミラは壁にもたれて眠りかけている。子供を抱えたままなので、頭が肩へ落ちかけていた。
エドルは石片の前で目を閉じている。祈り続けているのか、眠っているのか、俺には分からない。ただ、その背中はさっきより少しだけ緩んでいた。
カイルとリーナは、交代で入口を見ていた。
人間側の見張りは、思ったよりちゃんとしている。疲れていても、音がするとすぐ顔が上がる。こういう連中がいるなら、広間の中は任せられる部分が増える。
広間のことを俺一体で抱える必要はない。
役割を分けられるなら、俺は入口防衛に集中できる。
俺は入口を塞ぐ。カイルたちは避難民の配置を決める。ミラは念話で俺の声を拾いながら、子供のそばにいる。マルトは怪我人へ水と布を回す。エドルは里の連中を落ち着かせる。
役割が分かれれば、龍宮はただ逃げ込む穴じゃなくなる。
避難民が生きるための場所に変えられる。
◇ ◇ ◇
外の黒が少し薄くなった。
入口の向こうで、岩場の輪郭が見え始める。夜の間に近くをうろついていた牙獣の足音は、森の方へ下がっていた。いなくなったわけではないが、入口へすぐ飛び込む気配はない。
広間の奥では、子供も怪我人もまだ眠っている。
子供と怪我人が眠れた時点で、この一晩には意味があった。
——夜を越えた。
星骸の龍宮は、人を食うだけの迷宮じゃなくなった。少なくとも今は、里の人たちが一晩生き延びる場所になっている。
ただし、広間はまだ雑魚寝のままだ。水場へ行く道も、火の場所も、食料を置く場所も、どれもその場しのぎで決めただけだった。
今日は、水と火と寝場所の配置を直す。
一晩逃げ込むだけなら、入口を塞げばどうにかなった。
ここで暮らすなら、水、火、寝る場所、食う物を分ける必要がある。
外には牙獣がいる。
奥には、俺の迷宮がある。
この広間を、ただの避難場所で終わらせない。




