第122話 「生活区画」
朝になっても、入口の外にいる牙獣は消えなかった。
ファングウルフの足音は森の方へ下がっている。だが、完全に離れたわけではない。岩場の陰を歩く爪音と、低い唸り声が何度か返ってくる。
外へ出れば、また囲まれる。
牙獣が外に残っているから、今日は入口側広間の水場と寝場所を整える。
一晩逃げ込むだけなら、入口を狭めればどうにかなった。ここで数日もたせるなら、ただ座らせておくわけにはいかない。
水を飲む場所。
火を焚く場所。
寝る場所。
食料を置く場所。
最低でも、この4つは分ける必要がある。
やっていることは完全に避難所運営だ。
蛇から竜になった結果、ダンジョンで避難所の間取りを考えている。進化ルートの説明文に、これは絶対書いてなかった。
◇ ◇ ◇
最初に水場を決め直す。
右奥の壁際では、黒玻璃の床に細い溝が走っていた。冷たい水がその溝を伝い、浅いくぼみに少しずつ溜まっている。
水は多くない。
全員が好き勝手に汲めば、すぐ濁る。
俺は前脚で床を軽く叩き、くぼみの手前を示した。
『水を飲む順番を決めろ。子供と怪我人が先だ。水場の周りに荷物を置くな。足元が濡れると、年寄りが転ぶ』
カイルがすぐにうなずいた。
「水場は右奥だ。器を持つ者は一列に並べ。水を汲む者は二人だけ。濡れた床へ近づくな」
カイルの声が通ると、避難民の動きが少し整った。
俺が念話で全員へ言えば早い。だが、俺の声が頭に直接入ると、まだ肩を震わせるやつがいる。細かい指示は、人間の声で出した方が避難民は動きやすい。
少し悔しいが、まあ妥当だ。
俺が「水場の管理係」までやると、絵面が強すぎる。幼竜が水汲み列を監督している光景は、たぶん外から見たらかなりおかしい。
◇ ◇ ◇
次は火場だ。
左奥の壁には、天井へ抜ける細い割れ目がある。小さい火なら、煙はその割れ目へ上がっていく。
昨日は、とにかく火をつけるだけで精一杯だった。今朝は、火の周りに人が寄りすぎている。子供が近づきすぎれば火傷するし、荷物へ火が移れば一発で終わる。
牙獣から逃げ込んだ先で荷物を燃やすのは、かなり馬鹿らしい死に方だ。
『火の周りは空けろ。燃やす枝と布は左壁の端へまとめろ。火のそばで寝るな』
「火の当番を二人置きます」
ミラがそう言って、里の若い女と年寄りの男を呼んだ。
火の当番。
水の当番。
見張りの当番。
名前をつけるだけで、避難民の動きは少し変わる。誰が何をするか決まると、ただ震えて座っていた人間が立ち上がる。
役割分担は、この広間を守る戦力になる。
強い牙や爪とは違うが、役割を決めるだけで広間の混乱が減る。敵を倒すスキルではない。だが、守る人数が増えるほど効いてくる。
◇ ◇ ◇
寝る場所は、右壁側にまとめた。
水場に近すぎると床が濡れる。入口に近すぎると、牙獣が押し込んできた時に子供や怪我人が巻き込まれる。奥へ行きすぎると、俺がまだ確認していない通路へ子供が入り込む。
だから、右壁の中ほどに子供と怪我人を置く。
その手前に年寄り。
さらに手前に、すぐ動ける若い連中。
広間の中央は空ける。
俺とカイルたちが入口へ走る道だ。ここに荷物や人が転がっていると、牙獣が来た時に邪魔になる。
『中央には寝るな。入口で何か起きたら、俺がここを通る』
「中央は空けろ。荷物も置くな。アステルが走る道だ」
カイルが言い直すと、里の人たちが慌てて布や袋を左右へ寄せた。
アステルが走る道。
その言い方なら、避難民にも中央を空ける理由がすぐ伝わる。
ただ、俺が走るたびに避難所の中央を幼竜が突っ切るわけか。人間の避難所には絶対ない導線だな。
◇ ◇ ◇
食料置き場は少し迷った。
入口の近くに置けば、運び出す時は早い。だが、匂いが外へ漏れる。牙獣は肉の匂いに寄る。里から持ち込んだ干し肉や穀袋を入口側へ積めば、牙獣が入口へ寄る理由を増やすことになる。
水場の近くもだめだ。
水で濡れた袋は腐る。俺なら多少腐っていても食えるが、人間の腹はそこまで便利にできていない。
……いや、俺基準で考えるのがまず間違いだな。
食料は左壁の奥、火から離した場所に積ませる。そこなら入口からも水場からも距離がある。広間の中央を空けたまま、運ぶ時も動きやすい。
『食料は左壁の奥だ。火の横に置くな。水場にも近づけるな。匂いが外へ漏れにくい場所へ積め』
「食料は左壁の奥へ。袋を破くな。干し肉は布で包み直せ」
エドルが年寄りたちへ声をかけると、手の空いた者が荷物を動かし始めた。
年寄りの動きは速くない。だが、誰がどの袋を持ってきたか、どれが食料で、どれが布や道具かはよく覚えている。
こういう情報は俺には分からない。
食えるかどうかなら分かる。匂いでもだいたい拾える。だが、誰の荷物か、何日分あるか、どの子供に先に食わせるかは、里の連中の方が早い。
守るだけなら俺一体でもできる。
暮らすなら、人間側の手がいる。
◇ ◇ ◇
途中で、子供が一人、広間の奥へ歩きかけた。
奥の通路に、青白い光が少しだけ残っていた。子供はそれが気になったらしい。小さな足が、寝場所の境目を越えようとする。
俺は尾を伸ばして、子供の前に置いた。
子供は俺の尾を見て固まった。
泣かれるかと思ったが、子供は泣かなかった。代わりに、ミラがすぐ駆け寄って子供を抱き戻す。
「奥はだめ。アステルがまだ見てない場所だから」
『そうだ。入口側広間から奥へは行くな。俺が確認するまで、誰も入るな』
奥の通路は、俺の迷宮の一部だ。コアの感覚でも、危険な反応は拾っていない。
それでも、人間を勝手に歩かせる場所じゃない。
罠がないとは限らない。守護機構が避難民へ反応しないとも限らない。俺には平気な段差でも、子供なら足を折るかもしれない。
入口側広間は、俺が確認した範囲では牙獣が入れない場所だ。
だが、好きに歩いていい場所ではない。
俺は前脚の爪で、広間の奥側に浅い線を引いた。
『この線から奥へ行くな。水場、火場、寝場所、食料置き場。その4つだけ使え』
ミラが俺の言葉をそのまま広間へ伝える。
避難民の何人かが、奥の通路から目を逸らした。
よし。
境界は必要だ。
ダンジョンで「ちょっと見てくる」は死亡フラグだ。俺はそれを身をもって知っている。というか、今までだいたいそれで酷い目に遭っている。
◇ ◇ ◇
昼前には、入口側広間の形が変わっていた。
右奥は水場。
左奥は火場。
右壁の中ほどは子供と怪我人の寝場所。
左壁の奥は食料置き場。
中央は入口へ走るための道。
入口側には、カイルとリーナの見張り場所。
まだ綺麗な拠点ではない。黒玻璃の床に布を敷いただけだし、食料の量も心細い。火も一つしかない。
広間の形は、昨日の夜よりはっきりした。
避難民はただ座って待っているだけじゃない。水を汲む者、火を見る者、怪我人を運ぶ者、子供を集める者がいる。
人が動き始めた。
避難民が自分たちで動けるなら、俺が入口だけに集中できる時間が増える。
入口防衛に集中できる時間は、レオガルド戦へ向けた準備時間でもある。
レオガルドを倒すには、外の牙獣を食って強くなる必要がある。だが、俺が外へ出るたびに広間が崩れるようでは困る。
この生活区画は、防衛の一部だ。
◇ ◇ ◇
そう思った直後、入口の外で小石が転がった。
牙獣の足音ではない。
爪で蹴られた石が、入口の隙間から黒玻璃の床へ跳ねた。小石は中央の空けた道を転がり、子供たちの寝場所の手前で止まる。
子供が息を呑んだ。
ミラがその子供の前に出る。
俺は入口へ顔を向けた。
ファングウルフの匂いがある。だが、牙獣は入口へ突っ込んでこない。外の岩場から、こちらの反応を試している。
ファングウルフは入口の隙間から石を入れて、子供たちがどう動くかを見ている。
なるほど。
牙獣も、ただ噛みに来るだけじゃないらしい。




