第119話「外の爪音」
入口の外で鳴る爪音は、夜が深くなっても減らなかった。
黒玻璃の向こうで、牙獣が何度も爪を立てる。入口は削れていない。それでも、音が鳴るたびに右壁で眠りかけていた子供が肩を震わせた。
右壁で震えた子供と怪我人を寝かせたい。
水も火も場所も決めた。あとは避難民を休ませるだけだ。
だが、外の牙獣どもが迷惑な夜間工事を始めている。せめて作業申請くらい出してから爪を立てろ。
……出されても困るが。
俺は入口へ腹を寄せ、黒玻璃の縁へ前脚を置いた。
明日、外を確かめるつもりだった。
だが、この爪音が続けば避難民は眠れない。入口の外に何体いるのか、今夜のうちに確認する。
◇ ◇ ◇
入口を全開にはしない。
俺はコアの感覚で入口を動かし、外の音と匂いだけが入る細い隙間を作った。牙獣の鼻先は入らない。牙も爪も届かない。だが、風だけは細く入ってくる。
冷たい夜気に、獣臭が混じった。
嗅覚強化で匂いを分ける。狼型の青臭い息と、猪型の泥っぽい臭いが入口の正面で重なっていた。
次に反響定位を隙間の外へ薄く投げる。入口前の岩場で音が返り、右側と左側に牙獣が広がっている形がぼんやり見えた。
振動感知を床へ広げる。
入口正面に、四体分の足音。
右の岩場に、三体分の爪音。
左の低い斜面にも、二体分の足音。
さらに奥に、まだ薄い反応がある。遠いせいで数までは取りにくいが、入口の前だけで終わりではない。
少なくとも九体。
近いだけで九体だ。
リーナが火の届かない位置から入口を見ていた。顔色は悪いが、耳はちゃんと外へ向いている。
「アステル、外の足音が増えています。近い音だけで八……いえ、九体はいます」
『俺の振動感知でも九体だ。奥にもまだいる。レオガルドの足音はない』
「獅子の王は、近くにいないんですか」
『入口の前にはいない。あいつが歩けば、もっと地面が揺れる』
レオガルド本人が入口前にいるなら、休む時間はほとんどない。
だが、今いるのが配下だけなら、こちらは入口を閉じたまま人を休ませられる。
カイルが剣を持ったまま近づいた。
「今のうちに外へ出て減らすか?」
『今は出ない。人が寝ていない。入口を開けた瞬間に騒ぎになったら、怪我人が踏まれる』
カイルは広間の奥を見た。
右壁には子供と怪我人がいる。左壁には荷物が積んである。広間の中央は空けているが、今ここで戦闘を始めれば、休みかけた人たちは一気に起きる。
「なら、朝まで閉じるのか」
『完全には閉じない。外の数を確認しながら、どれを最初に食うか決める』
「食う前提なんだな」
『経験値が向こうから入口まで来てる。帰す理由がない』
カイルが一瞬だけ黙った。黙った理由は分かる。
人間側から見れば、入口の外にいるのは敵だ。俺から見ても敵だが、同時に肉と経験値でもある。
この辺りの価値観は、たぶん人間社会の会議では通らない。
◇ ◇ ◇
俺は入口の隙間をほんの少し広げた。
牙獣の鼻先はまだ入らない。だが、俺の片目なら外を覗ける。
黒い岩場の前で、狼型の牙獣が低く唸っていた。里を襲ったファングウルフと同じ系統だ。そいつらは入口へ飛びつかず、左右へ広がっている。
入口正面には猪型の牙獣がいた。
肩が高い。鼻先から伸びた牙が黒玻璃の縁に当たり、硬い音を立てている。柵を割ったタスクボアと同じ種類だろう。
こいつは確認しておく。
鑑定を向ける。
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種族:タスクボア
Lv:9
【スキル】
突進 Lv2 / 牙突き Lv1 / 硬皮 Lv1
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Lv9。
里の柵を割った個体より少し上だ。硬皮も持っている。
経験値としてはかなり欲しい。肉の量もある。突進役だから、放っておけば入口の前で何度でも体当たりしてくる。
ただ、こいつの強みは広い場所で走れる時だ。
入口の幅を絞れば、タスクボアは全身で突っ込めない。牙か鼻先だけを入れさせて、入口の縁で止める。首を動かせない位置なら、俺の爪と牙が届く。
猪肉が自分から小窓に来る。
いや、だいぶ危ない小窓だな。普通の家なら絶対に設計ミスだ。
ここは俺の迷宮だから、入口の幅は俺が決められる。
◇ ◇ ◇
タスクボアが黒玻璃の縁に牙を当てた。
がつん、と硬い音が広間へ入る。
子供が泣きかけたので、ミラがすぐ近づいて声をかけた。エドルも祭壇の石片の前で静かに手を合わせている。
この音を何度も入れるのはまずい。
入口そのものは壊れなくても、人の心が先に削れる。避難民は魔物と違って、HPだけ残っていれば動けるわけではないらしい。
面倒な仕様だ。
いや、前世が人間だった俺が言うことではないな。
俺だって就活メールが一通来るだけで、かなり精神を削られていた。牙獣の爪音より、企業の「慎重に検討しました」の方が嫌だった気もする。
くだらない記憶は置いておく。
今は入口の守り方を決める。
『カイル。見張りは入口から3メートル下げろ。入口の真横には立たせるな。タスクボアが首を横に振ると、突き出た牙が入口の横を払う。牙が当たれば、見張りの脚が裂かれる』
「分かった。入口の正面と横は空ける。リーナは音を聞ける位置に残す」
『リーナは足音の数だけでいい。外を覗くな。目が合うと向こうが騒ぐ』
「分かりました」
リーナは短く返した。
マルトが怪我人のそばから顔を上げる。
「僕はどうしますか」
『怪我人のところから動くな。戦闘が始まったら、入口じゃなくて右壁の怪我人と子供を見守れ。転んだ人を起こせ』
「はい」
入口を守る役割は決まった。
カイルたちは入口の近くで戦わない。リーナは外の数を聞く。マルトは怪我人を見守る。ミラとエドルは子供と年寄りを落ち着かせる。
俺は入口で牙獣の鼻先と牙を止める。
人間側の防衛というより、避難所の当直表だな。
竜になって最初にやる管理業務がこれか。迷宮の王、思ったより事務が多い。
◇ ◇ ◇
入口の外で、ファングウルフが一体吠えた。
その声に、他の牙獣がすぐ反応する。左右の岩場で爪音が止まり、入口正面のタスクボアだけが鼻息を荒くした。
さっき吠えたファングウルフの声に合わせて、牙獣たちは入口を叩く個体と左右で待つ個体に分かれた。
偶然集まって暴れているだけじゃない。ファングウルフの吠え声を合図に、群れが入口前で動きを揃えている。
レオガルド本人はここにいない。だが、あいつの群導が残っているのかもしれない。少なくとも、外の牙獣たちは入口前で散らばらずに粘っている。
避難民を休ませられる時間は長くない。
朝まで完全に静かにはならないだろう。
ただ、今すぐ全員で突っ込んでくるわけでもない。
こちらには、避難民を少し休ませて、最初に狙う相手を選ぶ時間がある。
避難民を休ませ、最初の獲物を選べるなら、今夜の入口防衛は組める。
俺は入口の隙間を、また音と匂いだけが入る幅まで狭めた。
黒玻璃の向こうで、タスクボアが牙を擦る。
最初に食うのは、あの猪だ。
突進役を先に潰せば、入口をこじ開ける力が減る。肉も多い。Lv9なら、今の進化率にも少しは入る。
入口は閉じたまま守る場所じゃない。
牙獣を一体ずつ仕留める罠にもできる。
次に入口を開ける時は、逃げるためじゃない。
外の肉と経験値を、こちらの幅に合わせて噛み砕くためだ。




