第117話「人が入る迷宮」
カイル、リーナ、ミラが黒玻璃の入口を越えた。
俺は最後に外から中へ入る。
里を挟んだ向こう側、西門の方で牙獣が吠えた。草を踏み潰す音も近い。あいつらは避難列を追ってきたらしい。
ただ、もう遅い。
里の人たちは龍宮の中へ入った。
俺は入口の内側で前脚を床へ置き、コアへ意識を向ける。
青白い筋が入口の縁に走った。左右の黒玻璃がゆっくり寄り、入口の幅が狭くなる。
入口は完全には閉じない。
外の匂いと音を拾える隙間だけ残す。その隙間なら、牙獣の頭は入らない。
すぐ外で牙獣が飛びかかった。
黒玻璃の縁に爪が当たる。硬い音が鳴っただけで、入口は割れない。牙獣は鼻先を押し込もうとしたが、黒玻璃の幅に阻まれて龍宮の中へ入れなかった。
よし。
壊れた西門と違って、この入口なら止められる。
外で牙獣が何度も爪を立てる。爪音は中まで響くが、黒玻璃の入口は動かない。
里の人たちが振り返って固まった。
ミラが青い顔で入口を見ている。カイルは剣を抜いたまま、俺と入口の間に目を走らせた。
『入口は狭めた。牙獣は入れない。全員、最初の広間まで進め』
俺は念話を広めに送る。
声がないぶん、頭に直接届く。何人かがびくっと肩を跳ねさせたが、ミラがすぐに頷いた。
「アステルが入口を止めています。みんな、広い場所まで進んで」
ミラの声で、避難列がまた動き出した。
◇ ◇ ◇
人が迷宮へ入っていく。
前は、俺がこの通路で何に食われるかだけ考えていた。今は怪我人をどこへ座らせるか、子供をどこへ寄せるかを考えている。
仕事が変わりすぎだろ。
俺の迷宮を、俺の巣だけで終わらせず、人を守る場所に使えている。
入口側の通路は黒玻璃でできている。床には青白い筋が残り、壁には古い刻印が細く並んでいた。
里の人たちは、その刻印を踏むたびに体を強ばらせる。
普通なら正しい反応だ。
迷宮の床が光ったら、何か飛び出すと思う。
でも、この入口側の床は動かない。壁際に残っている守護像の破片も、俺が近づいても、里の人たちが横を通っても沈黙したままだった。
コアに触れた時、入口側の通路と最初の広間は俺の管理範囲に入っていた。
この区画なら、守護機構は俺の指示なしに避難民へ襲いかからない。
魔物の気配もない。
白層や王座側と違って、入口側の通路は外へ向けた出入り口だ。迷宮の内部でも、ここだけは外から来た者を迎える形で作られているらしい。
考えるとだいぶ変だが、その作りが今は役に立っている。
◇ ◇ ◇
マルトが怪我人を支えながら、壁際の守護像の破片を見た。
「本当に、動かないんですか」
『入口側の守護像は動かさない。今は外の牙獣の方が危ない』
「今は、ですか」
マルトの声が少し裏返る。
まあ、マルトが怖がるのは分かる。
俺もこの迷宮の全域を好きにできるわけじゃない。コアの管理権限は初期のままだし、氷棺も王座の奥もまだ触れない部分が多い。
ただ、入口側の短い区画なら分かる。
どの床が安全か。
どの壁際に人を座らせられるか。
外から牙獣が来た時、どこで入口を狭めれば止まるか。
今の避難に必要な範囲なら、俺でも扱える。
カイルが後ろから避難列を見ながら言った。
「アステル。広い場所は近いのか」
『この通路を少し進んだ先だ。右の壁沿いに怪我人と子供を座らせる。荷物は左へ置け。入口の前だけは空ける』
「分かった。おい、聞こえたな。怪我人と子供は右、荷物は左だ。入口の前で止まるな」
カイルの声は通る。
里の人たちも、今はその声に従いやすいらしい。
俺の念話だけだと、いきなり頭に声が入るから驚く。カイルの声とミラの声が間にあると、避難列の動きが少し落ち着いた。
俺一人で仕切るより、人間と里の声を使った方が早い。
こういう調整は、俺が噛みついても覚えられない種類の仕事だな。
◇ ◇ ◇
入口通路を進むと、黒玻璃の床が左右へ広がった。
最初の広間だ。
天井は高く、壁際の床は平らだった。右壁の近くなら、怪我人を寝かせても通路を塞がない。左壁の近くには、荷物を積めるだけの空きがある。
広間の奥には、さらに内側へ続く通路が二本あった。
俺はその二本の通路へ意識を向ける。
反響定位が黒玻璃の奥へ返る。どちらの通路にも、すぐ近くに動く魔物はいない。
ただ、今は二本の通路へ避難民を入れない。
入口側の広間だけなら安全が読める。奥の通路まで人を入れるなら、先に俺が見てからだ。
『ここで止まれ。右壁に怪我人と子供。左壁に荷物。火はまだ使うな。煙がどこへ抜けるか見ていない』
ミラが俺の念話を聞いて、すぐ声に変えた。
「ここで休みます。怪我人と子供は右の壁へ。荷物は左です。火はまだ使わないでください」
里の人たちが、黒玻璃の床へ座り始める。
最初に座った子供は、床へ手を置いてすぐに顔を上げた。
何も起きないと分かったらしい。
その子供の母親が、長く息を吐いた。
周りの大人たちも、少しずつ膝をつく。怪我人は壁へ背を預け、年寄りは荷物を抱えたまま座り込んだ。
外ではまだ牙獣が入口を引っかいている。
中では、子供が初めて泣き止んだ。
その光景だけで、ここへ入れた意味はある。
家も柵も壊された里より、今は迷宮の入口側の方が人を守れている。
迷宮なのに。
いや、俺の迷宮だから、今はそうできる。
◇ ◇ ◇
エドルが祭壇の石片を抱えたまま、広間の中央を見回した。
「ここが、龍宮の中か」
声は震えていた。
恐怖もある。けれど、エドルの目は床の刻印と壁の黒玻璃を何度も追っていた。
ずっと信じていた場所へ、本当に入った顔だ。
信仰ってやつは、俺にはまだよく分からない。
ただ、この里の連中が祭壇を抱えて逃げてきた意味は少し分かる。
こいつらは、牙獣から逃げるためだけにここへ来たんじゃない。
自分たちが信じてきた場所へ、最後の逃げ道を預けた。
だったら、今夜くらいはこいつらを生かす。
外で牙獣がもう一度入口へ体をぶつけた。
広間の人たちが肩を震わせる。
入口は揺れたが、黒玻璃の縁は開かない。牙獣の爪音は、入口の外で止まっている。
リーナが入口側へ目を細めた。
「外の牙獣が増えてる。けど、中には入ってこない」
カイルが頷く。
「ここなら、少なくとも西門より守りやすい」
『入口は俺が見る。カイルたちは怪我人を数えろ。水と火と寝る場所は、次に決める』
カイルは短く頷いた。
ミラは壁際で座り込む子供たちを見て、俺へ目を向ける。
「アステル。ありがとう」
礼を言われるのは、まだ慣れない。
食う、逃げる、勝つ。その3つで進んできた俺が、人を迷宮の中へ入れて、寝る場所まで考えている。
前世の俺が見たら、かなり変な顔をすると思う。
変な仕事だが、投げ出す理由はない。
避難民を広間へ入れただけでは、怪我人も子供も朝まで休めない。
次は、水、火、寝る場所、入口の見張りを決める。




