第116話「灰牙の奥へ」
里の人たちが、壊れた西門の前で動き始めた。
ただ、避難の列はなかなか形にならない。
子供を抱えるやつがいる。怪我人に肩を貸すやつがいる。水袋、干し肉、火種を入れた壺を抱えて走り回るやつもいる。
泣き出した子供を、母親らしい女が抱きしめていた。足を怪我した男は、歯を食いしばりながら立とうとしている。年寄りは荷物を減らされるたびに、悔しそうに家の方を見た。
俺は、前世のことを変に思い出した。
人間だった頃の俺が、立派なやつだったわけじゃない。誰かを守る側にいた覚えもない。
それでも、泣いてる子供や震えている年寄りを見て何も感じないほど、完全に魔物だけになったわけでもないらしい。
それに、こいつらは祭壇の前で龍宮を信じていた。
今、その龍宮の入口を開けられるのは俺だ。なら、俺が前に立つ。
信仰の返し方なんて知らんが、見捨てるよりはずっと分かりやすい。
俺だけなら、龍宮の入口まではすぐだ。
けど、この人数で荷物を持って動くなら話が変わる。
牙獣が戻る前に、壊れた西門から離す必要がある。
◇ ◇ ◇
俺はミラへ念話を送った。
『俺が先頭に立つ。子供と怪我人は列の真ん中。カイルは最後尾を見てくれ。リーナは森側。マルトは怪我人を支えてくれ』
ミラはすぐ頷いて、俺の言葉を声に出した。
「アステルが先に行く。子供と怪我人は真ん中。カイルさんは後ろ。リーナさんは森側。マルトさんは怪我人を見て」
カイルは一瞬だけ俺を見たあと、剣を握り直した。
「分かった。後ろは俺が見る」
リーナは弓を手にして、森の方へ目を向ける。
「西側は私が見る。列を止めないで」
マルトは顔を引きつらせながらも、怪我人の腕を自分の肩へ回した。
「分かりましたよ。もうここまで来たら、やりますよ」
よし。
役割は決まった。
あとは、全員を西門から離す。
◇ ◇ ◇
避難列が壊れた西門に背を向け、里の背中側へ動き出した。
西門側を俺とリーナが歩く。中央を子供、怪我人、荷車が進む。黒い岩肌に近い奥側にはミラが付き、最後尾はカイルが押さえた。
この並びなら、牙獣が壊れた西門から追ってきても、最初に俺かリーナが受けられる。
リーナの弓は早い。
森から牙獣が飛び出しても、俺が前へ出るまでの数秒なら、リーナの矢で牙獣の足を止められる。
壊れた西門の向こう、西の森から牙獣の吠え声が二つ聞こえた。
列の中で誰かが息をのむ。
子供が泣きそうな顔で母親の服を掴んだ。
避難列の足が止まりかける。
まずい。
壊れた西門からまだ十分に離れていない場所で避難列が止まると、後ろの怪我人と荷車が詰まる。
俺は森側へ一歩出て、前脚で土を削った。
雷纏を薄く流す。
黒い爪の先で、小さな火花が散った。
牙獣の吠え声は、森の奥で少しだけ遠ざかった。
森の中では、こっちへ向かう足音がまだある。
ただ、今すぐ飛び出すほど近くない。
「歩け! 足を止めるな!」
カイルが後ろから叫んだ。
カイルの声で、避難列がまた動く。
怖がる時間を与えない方が、今は前へ進める。
◇ ◇ ◇
草が割れた。
狼型の牙獣が三体、森から飛び出してくる。
狙いは俺じゃない。列の真ん中だ。子供と怪我人が固まっている場所へ、低い姿勢で走っている。
リーナの矢が先頭の牙獣の肩へ刺さった。
先頭の牙獣が前のめりに転ぶ。リーナの二射目が喉へ入り、その一体は地面で痙攣したまま動かなくなった。
俺はその横を抜けて、残り二体の前へ出た。
雷纏を前脚へ流す。
右の牙獣の頭を、黒い爪で地面へ叩きつける。骨が割れ、土が跳ねた。
左の牙獣は横へ逃げようとした。
逃がさない。
尾で足を払って転がし、首へ牙を入れる。暴れる前に喉を噛み潰した。
避難列の前で、三体の牙獣はどれも動かなくなった。
よし。
今の牙獣なら、レオガルドみたいに押し返されることはない。
避難列がまた歩き出す前に、牙獣を少しでも食っておく。
次の襲撃までに、俺の体へ入れられるものは入れる。レオガルドを止めるには、今のままじゃ足りない。
俺は一番近い牙獣の腹へ牙を立てた。
血と肉を飲み込む。
通知は来ない。
小型の牙獣を少し食っただけなら、こんなものか。けど、食える肉を捨てる理由はない。
顔を上げると、カイルが顔をしかめていた。
マルトは口元を押さえている。リーナも、いつもの冷静な顔のまま少しだけ眉を寄せた。
ああ。
人の前で食うの、だいぶ絵面が悪いな。
次にレオガルドが来るなら、使える肉は全部使う。
ミラだけは、少し青い顔をしながらも避難列へ声をかけた。
「大丈夫。アステルが止めた。今のうちに進んで」
里の人たちは、牙獣の死骸を見て固まったあと、また龍宮の入口へ向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
龍宮の入口が見えてきた。
外の人間が灰牙と呼んでいた黒い岩肌だ。
岩肌の中央に、縦に裂けた入口がある。黒玻璃の縁には青白い筋が残っていて、俺が近づくと薄く光った。
里の連中の足がまた鈍る。
まあ、そうなる。
さっきまで牙獣から逃げてきた連中にとって、迷宮の入口は安全地帯には見えない。
むしろ普通は、入ったら死ぬ場所だ。
俺も前はそう思っていた。
というか、実際に何回も死にかけた。
ただ、今の龍宮は違う。
この迷宮の入口側には、俺を狙って動く魔物はいない。コアを触った時、入口から最初の広間までの通路、床の刻印、壁際に残る守護像の場所までは分かった。
入口から最初の広間までの通路には、牙獣も迷宮の魔物もいない。
外の牙獣に追われるより、俺の迷宮の入口へ入った方が生き残れる。
迷宮に逃げ込むのが正解になる日が来るとは。
人生、いや、竜生は分からん。
◇ ◇ ◇
「本当に、中へ入るのか」
荷を背負った男が足を止めかけた。
俺は入口の前へ出る。
黒玻璃の床へ前脚を置き、コアへ意識を向けた。
俺が開ける範囲は、入口側の短い区画に絞る。
避難列が入れる幅を開ける。
青白い筋が、床から壁へ伸びた。
入口の内側で、狭かった黒玻璃の溝が少し広がる。
無理やり岩を壊したわけじゃない。
最初からある道が、俺の前で開いた。
里の連中がざわめく。
「開いた……」
「灰牙が」
「龍宮だ」
名前の呼び方はばらばらだ。
けど、足は前へ向いた。
ミラが最初に一歩出る。
「大丈夫。アステルが先にいる」
ミラはそう言って、怪我人を支える女の背中を押した。
◇ ◇ ◇
最初に入ったのは、足を怪我した男だった。
マルトと里の女に肩を借りながら、黒玻璃の床へ足を置く。
何も起きない。
守護像も動かない。
床の刻印も、避難民へ牙をむかない。
次に子供が入る。
その子供は、俺の尾を見て一度だけ固まった。
俺は尾を入口の壁側へ寄せる。
踏まれても困るし、怖がられて列が止まるのも困る。
子供は母親に手を引かれて、黒玻璃の床を越えた。
よし。
入れる。
この入口なら、少なくとも今の人数を迎えられる。
里の人間が、一人ずつ龍宮へ入っていく。
◇ ◇ ◇
里の向こう側にある西の森で、牙獣の吠え声がまた増えた。
リーナが弓を構える。
「近づいてる。急いで」
カイルが最後尾で荷車を押した。
「走らなくていい! 転ぶな! 入口まで進め!」
その声で、避難列は崩れずに前へ進む。
かなり危ないが、まだ間に合う。
外に残っている人数が減るたびに、俺の胸の奥が少しだけ軽くなる。
守る対象が減っているんじゃない。
守れる場所へ移している。
この差は大きい。
最後にエドルが祭壇の小さな石片を抱えて入口へ来た。
年寄りの足は遅いが、目はまだまっすぐだった。
エドルは入口の青白い筋を見上げ、それから俺を見た。
「頼むぞ、アステル」
俺は短く念話を返す。
『入口側は任せろ』
エドルは頷き、龍宮の中へ入った。
◇ ◇ ◇
龍宮入口の外には、カイル、リーナ、ミラ、それから俺だけが残った。
マルトは先に怪我人と一緒に入っている。
里を挟んだ向こう側の西の森では、低い唸り声が草の向こうで増えていた。
牙獣の姿はまだ見えない。
牙獣の匂いは、森の奥から入口の近くまで来ている。
「俺たちも入るぞ」
カイルがそう言った。
ミラは入口の内側を見て、それから俺を見る。
「アステルも、来るよね」
当たり前だ。
俺が最後に入らないと、この列は落ち着かない。
『入る。入口を閉じるのは、全員が中へ入ってからだ』
ミラが頷く。
俺は入口の外で、西門の方を一度だけ見た。
龍宮入口から見ると、壊れた西門は里を挟んだ向こう側にある。牙獣がすぐ家へ飛び込める位置からは、避難列を離せた。
里の連中は、俺の迷宮へ入り始めた。
次は、この入口側を本当に安全な場所にする。




