第110話「獅牙王」
戻ってきたのは一体だけだった。
血に濡れた毛を引きずりながら、四つ脚の大きい獣が西の森の奥へ入ってくる。前へ出した群れも、柵を割る猪も、もういない。
残った一体は、骨が転がる広間の手前で腹を地につけた。
奥は暗い。
だが、返ってきた獣はそこを見るだけで、背をさらに低くした。
奥から低い声が響く。
「減ったな」
返ってきた獣は顔を上げない。
代わりに、奥から太い前脚が一つだけ出た。爪が骨の床を噛み、白い床に四本の溝が深く走る。
その爪が床へ入っただけで、返ってきた獣の腹はさらに地面へ落ちた。
この迷宮で頭を下げさせる相手は一体しかいない。
獅牙王レオガルドは、返ってきた獣の前で止まった。
◇ ◇ ◇
配下の毛には、里の匂いがべったり残っていた。
人の汗。土。煙。柵の乾いた木。血。鉄。
その中に、甘い匂いが一筋だけ残っている。
若い竜血だ。
竜血の匂いはまだ薄い。だが、普通の人間にはない匂いだった。
レオガルドは喉を鳴らした。
里に、竜血を持った人間がいた。
人の匂いの下に、もう一つ別の匂いがある。
人でも牙獣でもない。その匂いの主はまだ若い。だが、配下はそいつを見て飛びかからず、そのまま戻ってきた。前へ出した狼や猪とは扱いが違う。
星骸の龍宮の奥で長く沈んでいた竜の匂いに近い。
その匂いの主はまだ若い。だが、前へ出した狼と猪をまとめて死なせるくらいには育っている。
レオガルドは返ってきた獣の傷へ目を落とした。
喉の横が裂けている。腹の毛も焼けていた。狼や猪を押し出したあと、前へ出たやつはそこでやられた。
里と敵を見て戻ったこの一体だけで、里に何がいるかは分かった。
◇ ◇ ◇
「里か」
低い声が、今度は少しだけ強くなる。
竜血を持つ人間がいる。
しかも、そのそばに星骸の龍宮で目を覚ましたやつまでいる。
竜血の娘だけさらっても駄目だ。
龍宮側で目を覚ました若いやつも、同じ場所でまとめて潰す。
里ごと押し潰せば、竜血の娘も、龍宮側で目を覚ました若いやつも、同じ場所で取れる。
レオガルドの爪が、もう一度床へ入った。
さっきより深い。骨の床に走った四本の傷へ、細い欠片がぱらぱら落ちる。
「次は群れに任せん」
返ってきた獣は頭を地面へつけたまま、ぴくりとも動かない。
「俺が行く」
◇ ◇ ◇
広間の外では、森の奥まで牙獣の匂いが詰まっている。
狼も、猪も、もっと大きい獣も、まだ残っていた。
レオガルドは広間の出口へ顔を向けたまま、低く吠えた。
一度だけだった。
外にいた牙獣たちが一斉に動く。落ち葉を踏む音が重なり、静かだった西の森にざわつきが広がっていく。
あの里はもう見た。
柵の高さも、人の数も、そこに混じった匂いも分かった。
次は見に行くだけじゃない。里を潰しに行く。
西の森へ残った低い唸りは、獲物を見つけた獣の音じゃなかった。
潰しに行く王の声だった。




