第31話 余力のない自治領
その自治領は、地図の端にあった。
主要街道から外れ、
交易路も通らず、
資源と呼べるものも乏しい。
名前だけは立派だが、
実態は「残された場所」だった。
ミラ・ハーシェルは、
朝一番に結界塔の点検記録を確認していた。
「……問題なし」
そう書いて、
自分でも少しだけ眉をひそめる。
本当に問題がない日は、
ほとんどない。
ただ、
問題と呼べる余力がないだけだ。
「技師、二名。
本日も両名稼働可能」
報告をくれた補佐官は、
申し訳なさそうな顔をしていた。
「予備は?」
「……ありません」
分かっている。
この自治領に、
“予備”という概念は存在しない。
結界は最低限だった。
都市全体を覆うものではなく、
人が多い区画だけを守る簡易型。
壊れやすい。
だが、これ以上は張れない。
魔力も、人手も、
足りないからだ。
昼前。
一件目の報告が入る。
「北区画、地脈の流れに乱れあり」
数値は小さい。
基準内。
ミラは、記録板に視線を落とす。
「対応は……様子見」
理由を書く。
判断理由:
異常は小規模
介入により、
他区画の結界安定度が下がる恐れあり
正しい判断だ。
少なくとも、
教わった通りには。
午後。
二件目。
「南区画、結界出力が不安定」
一件目より、少しだけ重い。
だが、
今、動けば北区画を空けることになる。
ミラは、唇を噛んだ。
「……南は、出力調整のみ」
理由を書く。
判断理由:
介入範囲を限定し、
全体崩壊を避けるため
誰にも文句は言われない。
言える余裕が、
誰にもない。
夕方。
三件目の報告が届いた。
最も厄介な区画だ。
「西側居住地、
小規模な地盤沈下の兆候」
ミラは、ペンを止めた。
三件同時。
判断はできる。
理由も書ける。
だが――
「人が、足りない……」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
その夜。
西側の一部で、
地面が少し沈んだ。
建物一棟が傾く。
死者はいない。
怪我人も軽傷だ。
だが、
そこにはもう住めない。
報告書は、淡々としている。
結果:
局所的被害
人的被害:軽微
判断は、
どれも間違っていない。
理由も、すべて妥当だ。
それでも、
守れなかった。
夜遅く。
ミラは、結界塔の下で一人立っていた。
風が冷たい。
「……余力が、ない」
それは、
誰かを責める言葉ではない。
ただの事実だ。
翌朝。
フォルン辺境領から、
視察の予定が入ったという報が届く。
名もなき建物。
記録と判断の場所。
ミラは、
少しだけ安堵し、
同時に、強い不安を覚えた。
正しいやり方は、知っている。
だが――
使えるとは限らない。
その日、
この自治領では何も起きなかった。
壊れたのは、
昨日の続きだけだ。
だが、
ミラは知っている。
ここでは、
考える前に、
足りないものがあるということを。




