第32話 正しい記録、足りない人手
朝から、嫌な予感はしていた。
ミラ・ハーシェルは、
結界塔の螺旋階段を上りながら、
何度も時計代わりの魔導盤に目をやった。
まだ午前中だ。
それなのに、すでに疲労が溜まっている。
理由は分かっていた。
人が、足りない。
一件目の報告は、北区画。
「地脈流速、通常より二割低下」
技師の声は冷静だった。
「基準内です」
「……対応は」
「現地調整で様子見可能です」
ミラは、うなずく。
記録を書く。
判断理由:
変動は軽微
即時介入より、
経過観測が妥当と判断
正しい。
誰が見ても。
二件目は、間を置かずに来た。
南区画。
「結界出力が一時的に不安定」
「原因は」
「昨夜の降雨です」
自然要因。
回復する可能性が高い。
ミラは、深く息を吸う。
「出力を一段階だけ調整。
全面介入はしない」
再び記録。
判断理由:
原因が特定可能
全面調整は、
他区画への影響が大きいため
これも、正しい。
そして、三件目。
西側居住地。
嫌な場所だ。
昨日、被害が出たばかりの区画。
「地盤沈下の兆候、再発」
技師の声が、少しだけ強張る。
「……規模は」
「小です。
ただし、前回と同地点」
ミラの指が止まる。
三件とも、
単独なら対処できる。
だが、同時だ。
技師は二人。
結界操作は、同時に一系統しか扱えない。
「……優先順位を」
補佐官が、小さな声で言う。
ミラは、すぐに答えられなかった。
北は、様子見で問題ない。
南も、最低限で足りる。
西は――
昨日壊れた場所だ。
放置すれば、
確実に被害が出る。
だが、
西に全力を割けば、
他が空く。
「……西を優先します」
絞り出すような声だった。
「北と南は、
記録通り様子見」
誰も反論しない。
反論できる余裕が、
誰にもなかった。
西区画での対応は、
ぎりぎり間に合った。
地盤の沈下は止まり、
建物の傾きも最小限で済む。
だが――
夕方。
南区画で、
結界の揺らぎが大きくなった。
即座に介入したが、
商店街の一部が一時閉鎖される。
被害は軽微。
死者もいない。
それでも、
人々の不安は残った。
報告書は、こう並ぶ。
北区画:
異常継続中(小)
対応:経過観測
南区画:
一時的機能低下
対応:回復済み
西区画:
被害回避
対応成功
どれも、
判断自体は正しい。
夜。
ミラは、記録を見返していた。
理由は、すべて妥当だ。
論理も通っている。
「……でも」
小さく、呟く。
「全部は、守れていない」
そこへ、補佐官が声をかけた。
「責任は……」
「私が取ります」
ミラは、即答した。
「判断したのは、私です」
だが、
それは本質ではない。
本質は、
正しく判断しても、
同時には動けなかったこと。
判断の問題ではない。
人手と余力の問題だ。
その夜、
フォルン辺境領へ送られた記録の末尾に、
一行が追加された。
補足:
判断は適切
ただし、
同時対応能力に限界あり
その一文は、
評価もされず、
削除もされなかった。
ただ、
静かに残った。
ミラは、結界塔の外に出て、
夜空を見上げた。
「……正しいだけじゃ、
足りない」
それは、
誰かを責める言葉ではない。
ただの事実だった。
この自治領では、
今日も世界は終わらなかった。
だが、
守れなかった時間と場所が、
確かに積み重なっていた。




