7話
あの日から、凛ちゃんの様子が少しおかしい。
朝、「おはよー」と挨拶をしても返事が無いことが出てきた。
そして、肩をぽんぽんとすると、驚いたようにしてようやく気がつく。
すぐに笑いかけてはくれるのだが、その笑顔はいつもどこかぎこちなく感じる。
そのほかにも、講義中にノートを取る手が途中で固まり、しばらくすると焦ったように動き出す事も多い。終わった後に内容を聞いてきたりして、私と共通ではない講義の時にはどうしているのか心配になってしまう。
このような、今まで絶対にしない簡単なミスが頻発していて、何とかしてあげたいとは思う。
しかし、大丈夫なのかと質問しても大丈夫としか返事は返ってこずに、このような状況が改善されることないまま何もできず……気がつけば吉田くんのインターンが始まる頃になっていた。
「お母さん、おはよー」
「おはよう、遥。雄一郎さんは、もう会社に行きましたよ」
「そっか……。もう、そんな時期になるんだね」
冬になり、父は朝早くから家を出るようになった。この時期になると、毎日ではないが作っているお酒の味を確かめる必要が出てくる。
そのため車の運転ができなくなるので、お酒を飲む日は移動が大変らしいのだ。
「次の宿直はいつって言ってたの?」
「確か、来週の木曜日って言ってたわね」
父に会えない日も出てくる。だから、幼いころの私は……冬が来なければいいのに。父にそう言って困った顔をされたのも、一度や二度では無かった。
「そっか……じゃあ、その日のご飯は久しぶりに、海老にしちゃう?」
「ふふ……そう言うと思って、冷凍のエビフライを買っておいたわよ」
しかし、今ではちょっぴり楽しみでもある。
「わーい、ありがとう! あ、そうだ。タルタルソースは私が作るね」
今日も焼きたてのトーストをかじる。蜂蜜の風味にバターのコクが混ざり、更には塩気で甘みが増幅してとても美味しい。
しかし、焦げた苦味が何故か舌から離れてくれなかった。
そして、今日も講義が終わってサークルの部室へと向かう。私たちが所属する発酵・保存食研究会は、所属人数が七人しかいない小さなサークルだ。そのうち三人がインターンで不在なので、しばらくはまともな活動ができなさそうだ。
「吉田くんが居ないと部室が静かだね」
「あのバカが、シュールストレミングとかの変なものを持ってこないって安心できるけどな」
「あはは……あのときは大変だったよね……」
「そんなもの、何処で買ってきたのでしょうね?」
「全く……あのときは中庭に持っていかないとどうなってたことか。水を入れたバケツの中で開けても酷い臭いだったぞ……」
里中先輩がどこか遠くを見ながら呟く。ぱんぱんに膨らんだ缶詰をどうするかとか、部屋の中で開けようとする吉田くんが羽交い締めにされたりと大騒ぎした時を思い出す。
「それでも、近くの部室から臭いって怒られたよね」
先輩達と周囲に平謝りしていたことは、記憶に新しい。ただ、何故か全員開ける気は満々だったのは、今でも謎である。
「ね、凛ちゃん?」
「……え、ああうん。そうだね」
肘をついて窓の外をぼんやりと見ていた凛ちゃんの体が跳ねる。
「……ごめん。私、もう帰るわ」
「お疲れ。気を付けてな」
凛ちゃんがカバンを肩にかけて、部室から出ていく。私はそれに声をかけようとしたが、ただその後姿を見守るだけだった。
「おい、本田。山口は一体どうしたんだ? 流石に一月もあの様子なのはおかしいだろう」
「すみません、里中先輩……。私もどうしたのか聞いては見たのですけど、何もないとしか言ってくれないんです」
「そうか……。よし、本田。お前、何でもいいから山口に悩みを相談してこい」
「え、なんでですか!?」
何かの冗談かと思ったが、里中先輩の顔は真剣な表情でこちらを向いていた。
突然そんなことを言われても、何を相談しろというのだろうか?
「いいか、よく聞け。あいつに聞こうとするな。あいつはいつも聞く側だろ?」
「えっと……はい」
「ああいう奴はな……無理に聞かれても、逆に言えなくなるんだよ」
「そういうものなのですか……?」
「ああ、そういうもんだ……そしてこれは、お前にしかできないことだ。……わかるだろう?」
「……はい。このままじゃ、凛ちゃんが辛いだけ……ですよね?」
「俺は山口じゃないからわからん。だからこそ、お前が行くんだよ」
私も困っているときには助けてあげたい。そう思っていたのに、いま動かなくていつ動くのか?
「わかりました! 先輩、ありがとうございます!」
「流石は里中先輩! 数年余分に人生経験積んだだけありますね!」
「うるせぇぞ姫野! 俺の二年を余分な数年扱いするんじゃねぇ! 自転車で日本一周の何が悪いんだよ!」
「だって、何処の何が美味しかったって情報しか、いつも教えてくれませんしー」
小春ちゃんがくすくす笑いながら里中先輩をからかう。そのいつも通りのやりとりに、入れたはずの気合が何処かに抜けていった。
「では、後は若いお二人に任せるということでー。お先に失礼します」
「お前も何言ってんだよ……。お疲れ、また明日な」
「あ、私もお先に失礼しますねー。二人っきりだと身の危険を感じちゃいますし?」
「お前ら……。俺、泣くぞ?」
泣き真似をしながら露骨に項垂れる先輩を部室に置き去りにして、小春ちゃんと一緒に門を出る。
そこで小さく手を振って分かれた後、冷たく乾いた空気を感じながら家路についた。
自転車を漕ぎ、流れる風で頭を冷やしながら考える。
凛ちゃんに相談するにしても、何を相談すれば良いのだろうか? 相談する内容を相談出来れば良いのに……。
そのような事を頭に浮かべはしたが、結局いい案は思いつくことが出来ない。
だが、家に着いたら凛ちゃんに連絡を送る。その決意だけは固まっていた。




