5話
「ただいまー!」
脱ぎ散らかした靴を整え、リビングへと向かう。
いつもと変わらぬ様子で掃除機をかける母が、私の方へと身体を向けた。
「おかえりなさい」
掃除機の音が止まる。
「ねえ、着替えてからでいいから……インターンの話。少し聞かせてもらってもいいかな?」
「うん、わかった」
部屋に戻って上着を掛け、ゆっくりした部屋着に着替えた。
どのように話すべきだろうか。
本番の前に、母に整理をしてもらおう。
リビングの食卓には、既に母が待機していた。
無言でカフェオレが差し出される。
両手でマグカップを持ち、喉を潤して一息つく。優しい甘みと温かさが、無意識に少し強張っていた身体をほぐしてくれた。
しかし、胸のざわつきは治まってはくれなかった。
「それで、雄一郎さんの会社以外のどこを見てみたいの?」
母がマグカップに一口つける。
「で……お父さんに言いにくい場所なのよね?」
「うん……やっぱり、お父さんもわかってるかな?」
「近くで聞いてた私でも、言いにくそうだって感じてるのよ?」
胸に溜まっていた空気を全て吐き出す。父に何も言い返せず、言葉を詰まらせる未来が脳裏をかすめる。
不意討ちで話題を切り出すべきだっただろうか? でも、それだと言い出せず仕舞いだっただろう。逃げないためにも、朝のうちに伝えるのは必要な事だったはず。
「遥。あなたのことだから、お義父さんが働いていた蔵でしょ」
マグカップを持つ手が固まる。
「やっぱり。あそこは昔ながらの生酛一筋の場所だから、雄一郎さんは間違い無く反対するわね。理由はわかっているでしょ?」
「うん……。お父さん、生酛が嫌いだから……」
「あら、違うわよ。雄一郎さん、本当に生酛が嫌いだと思う?」
「嫌いじゃないの?だって……お祖父ちゃんの話をする時、いつも苦しそうなのに」
いつも、祖父の酒造りを否定するように言葉を吐き捨てる父の姿を思い浮かべる。
あれで嫌いでないなら、何なのだろうか。
言葉を探すが、見つからなかった。
「本当に嫌っていたら、なんでお酒を造る仕事なんてしているのかしらね」
少しだけ時間をおいて、カフェオレに口をつける。
……先ほどよりも苦く感じた。
「あの人が嫌っているのは、造り方そのものではないの」
目線を合わせ、息を呑む。
「雄一郎さんは、怖がりなのよ」
母もカフェオレに口をつけ、優しく微笑む。
「お父さん、怖がりなの? 全然、そうは見えないけど……」
「実は、そうなのよ。でも、普段は弱音を言えない人なのよねー」
手を口元に当ててクスクスと母が笑う。
「で、遥は雄一郎さんが何を怖がっているのかはわかる?」
「お父さんが怖がること……うーん……」
父がいつも話していたことを思い出す。
「あっ……もしかして」
「何かわかった?」
「うん。お父さんって、ひょっとして寂しがり屋でもあったりする?」
「あはは! そうなのかもね? ふふっ……遥ったら、お父さんの事を寂しがり屋だなんて……」
「もう! 笑うことないじゃない……」
頬を膨らませて抗議をする。
母が落ち着くまでの間、マグカップの中を覗き込み、一度深く呼吸をする。
……私の中のお父さんのイメージが、何だかずいぶんと変わってしまった。
「なら、雄一郎さんに何を言えばいいかわかる?」
「うん。多分……」
「そう……」
母がマグカップを持って立ち上がる。
「後は、もう大丈夫よね?」
「うん。ありがとう」
父が帰ってくるまでは、まだ少し時間がある。ぬるくなったカフェオレを喉の奥に流し込み、鼻から大きく息を吸って口から吐く。
呼吸を整える中、ほんのりとコーヒーの酸味が舌の上に残っている気がした。
マグカップを洗って片付けた後、料理を手伝っている最中に玄関から声が聞こえてきた。
「ただいま」
「お父さん、おかえりなさい」
「おかえりなさい。雄一郎さん、ご飯は先にします?」
「いや、後にする。遥、インターンについての話だったな」
「……うん」
手足が汗でしっとりとしてくる。
口から言葉が出そうで出ない。
……大きく息を吸い、肺の空気を全部吐き出して、父の顔を見る。
「お父さん。私、お祖父ちゃんの働いていた蔵で勉強してみたい」
父が頭をがりがりと掻く。
「はぁ……だろうな。わかってるだろうが、俺は反対だ」
父が人差し指を立てる。
「まずは一つ。遥は親父のことを知りたいから、あそこにインターンしたいのだろう? 親父の事を聞きたいなら、別にインターンで行く必要はない。社長も杜氏も俺の知り合いだし、遥も会ったことがある。それなら、普通に会いに行けばいいだけだ」
更に中指を立てる。
「二つ目だ。あそこは昔ながら生酛一筋の古い蔵で、それ以外の造り方はしていない。力がある男でも過酷な力仕事が多いんだ。慣れていない人間が仕込みをする事は、安全性の面から見てもいい顔をしないだろう。……それに、怪我をしたらどうするつもりだ? 責任問題にもなるだろう。特に、知り合いの娘や孫娘に怪我をさせたい人間が何処にいる? 門前払いでもおかしくないはずだ」
そして、薬指も立てる。
「最後に三つ目だ。生酛の仕込み作業は想像以上に大変な仕事だ。何ヶ月も泊まり込みで作業することになるし、帰りたいと言ってすぐに帰れるようなものでもない。お前にそれが耐えられるのか?」
父は手を下げて、更に続ける。
「はぁ……それなら、別に私が働いている蔵でインターンすれば良いだろうが……。早起きしてもらう必要はあるが、車で一緒に行けばいい。あの蔵には連絡を入れておけば、帰りにでも連れて行ってやるさ。……無理する必要は、何処にもないんだ」
「……うん。お父さん、ありがとう。大変な作業だと言うのは、勉強したからちゃんと知っている」
言葉が喉に詰まって出てこない。しかし、俯きそうな顔を上げて、しっかりと前を見る。
「それでもやっぱり、お祖父ちゃんの働いていた蔵で勉強してみたい……。ううん、お祖父ちゃんと同じ体験をしてみたい気持ちは、何一つ変わらない」
「そうか。なら、どうするつもりだ?」
「お父さん、お願い。私、挑戦してみたいの! 失敗するかもしれない……。門前払いされて、結局出来ないかもしれたい……。でも、こんな機会じゃないと挑戦すら出来ないと思う!」
「……それで?」
「別に、お祖父ちゃんの蔵に就職したいって言ってるわけじゃないの……。インターンだからって、絶対にそこに就職しないといけないってわけじゃないから。一度だけでいいの。この機会にやらないと、私はずっと後悔すると思う」
「そうか、それだけか? その一回で怪我をするかもしれない。責任問題についてはどうするつもりだ」
「それについては、ちゃんと誓約書があるの。何かあっても自己責任だって証明は出来るかな。でも、私だって怪我したいわけじゃないからね? だから……」
「……どうした? 早く言え」
「えっと……まずはお父さんが働いてる蔵でインターンして、大丈夫そうならお祖父ちゃんの蔵に行かせてもらえないかな? って。……ダメ……かな?」
父が額を手で押さえてため息をはいた。
「あはは……それで、厳しさに耐えれなかったときは、その……お父さん、お願いします!」
全力で頭を下げる。なんだか顔が熱くなってきた。
「お前なあ……。俺の職場でインターンは、別に構わんが……そりゃないだろ」
父の声から硬さが少し取れていた。
「はぁ……。インターンだけでは、少し足りんな」
「それじゃあ!」
「そうだな……まず、四月の間はうちの蔵でインターンすること。次に、六月には俺の知り合いの田んぼで田植えの手伝いをすること。そして、十月にそこの収穫を手伝うこと。これがちゃんと出来たら、考えてやる」
「お父さん、ありがとう!」
「考えるだけだ。まだ決定したわけじゃない事を忘れるなよ。ああ、後はインターン中は、必ず毎日連絡すること。これは絶対に忘れるな」
「うん!」
父に頭を撫でられてから食卓に向かう。
「難しい話は終わった? はい、今日はカレーよ。ニンジンとジャガイモは、遥が手伝ってくれたのよね」
「そうか。皮は……大丈夫だな」
「もう、お父さん! 嫌なら別に食べなくてもいいからねー」
スプーンを動かし、口へと運ぶ。
刺激の中にある優しい甘みが、一口ごとに身体中に染み渡るような気がした。




