3話
家に帰って鞄を置き、ベッドに倒れ込んだ。
「先生……。お酒を前にした途端、あんなふうに変わるとは思わなかったよ……」
祖父の酒を評価してもらえたのは嬉しいと言えば嬉しいのだが、あそこまで執着を剥き出しにされると、どう対応して良いのか困る。
とりあえず、あの酒にはそれだけの価値があるのだと自分に言い聞かせ、机へと向かって講義の復習をすることにした。
集中力が切れてきた頃、外から車が止まる音が聞こえてきた。
私はノートを閉じ、玄関へと向かった。
「お父さん、おかえりなさい」
「ただいま。遥、持っていった酒はどうなった?」
「教授に渡して検査してもらえる事になったんだけど……あれだけの量で、どんな検査が出来るのかな?」
「そうか、検査出来たとしても一つか二つ。何かがわかれば御の字だと思っておけ」
「そっか……。あ、お父さん。一つ聞いてもいいかな? もしもお祖父ちゃんが守ったのがお酒じゃなくて水だったら、お父さんはどうしてたのかな」
「……どうした、急に」
首を傾げて真っ直ぐ見つめられる。思わず視線を、父の横へと逸らしてしまった。
「……ああ、教授か誰かに何か言われたのか。お前はそんな哲学みたいなことを考えるような子じゃないだろうに」
「えっと……」
父の洞察があまりにも鋭い……。私は、そんなにも顔に出ていただろうか? 図星を突かれて言葉に詰まる。
「全く……。親父がこんなもののためにと憤慨するかもしれないし、なぜこんなものをと悲しんでいたかもしれないな。後は聞くだけではなく、自分で答えを探してみろ」
父は視線を合わせて私の頭をぽんぽんと撫でた後、自分の部屋へと入って行った。
成人したというのに、父からはまだまだ子供扱いされている。それに対して、少し恥ずかしく思いながらも安心してしまい、父が部屋に入るのをじっと見つめている自分がいた。
そして翌日。
講義が終わって教授を訪ねると、鼻歌が聞こえてくるほど機嫌が良かった。
教授は私に気がつくと、鼻歌をやめて真面目な顔を作った。おそらく、もう手遅れである。
「あ、本田さん。お待ちしてました。あれからすぐに滴定と振動式で測定を済ませてしまいましたよ。こちらが検査の結果です」
検査結果が書かれた紙を渡される。
「日本酒度は+3で酸度は1.9。アルコール度数は15%で、アミノ酸度もやや高めですね。お祖父様のお酒はおそらく生酛か山廃仕込みのものです」
「酸度がかなり高いですね……。他にも、何かわかった事はありませんか?」
教授の顔から真面目な色が消え、一瞬で楽しそうな笑顔へと変化した。
「そうですね……あのお酒、実に素晴らしかったです! いやー、役得でしたよ。鋭かったはずの酸の角が時間の流れで取れ、それがまろやかな旨味の輪郭となって、素晴らしい深みを生み出していました。余韻も長く滑らかで……柔らかくも芯が太くてはっきりしていて……」
急に早口で語り始めた。……本当に日本酒が大好きらしい。
ただ、その勢いに押されて、思わず一歩引いてしまう。
「やはり飲まれたのですね……生酛か山廃という判定も、もしかして……?」
「ええ、当然です。酒の本質というものは、人の舌というセンサーを通さないと、絶対に解らないのですよ」
子供のように純粋なニコニコとした笑顔を浮かべている。……本当にこの人を頼って大丈夫だったのか?
「あぁ、どれだけ素晴らしいのか、金銭的な価値で評価してみましょうか。……あのレベルであれば、発見された状況も込みでオークションにかけると、瓶一本で三十万円……いえ、海外ならば、もっと上がる可能性もあるでしょう」
「えっ……!?」
「実際にはそこまで行かなくとも、十万円は確実に行くでしょうね。いやー、凄い価値のお酒ですねー?」
十万円となると、私のお小遣いの十カ月分だ。
驚きに目を見開いて教授の顔を見返すと、いたずらそうな笑みを浮かべていた。
だが、次の瞬間。教授の表情がスッと消えた。
今までとの落差と、その笑っていない目に射すくめられ、無意識のうちに後ろへと一歩下がっていた。
「……さて、本田さんはどう思いますか?」
十万円……。私からしたら、とても魅力的な金額だ。欲しかった服や鞄も全部買える。
それだけの価値があるなら、守ろうとするのも当然なのかも……。
でも、お金のために命をかける?
いや……違う。そんなはずはない。
父の話の中の祖父は、酒そのものを大事にしていたはず。
お金で動くなんていう人ではないはずだ!
一瞬でも値段に心が揺れた自分を思うと、胸の奥に冷たい澱が沈んでいく。
なら……何が理由なのか?
だからこそ私は余計に、祖父の意図を掴めずにいるのだった。
「さて、私はそろそろ会議があるので失礼します。本田さんも、お気をつけて」
「あ、はい。先生、ありがとうございました!」
「いえいえ、価格と価値は別物です。それをお忘れなく」
背中越しにひらひらと手を振る教授を見送る。
……もしかしたら、この人を頼って正解だったのかもしれない。しかし心には澱が残り、足取り重く帰路につく。
数十分後。
私はすぐには家に入らずに、近所の港で波をぼんやりと眺めていた。押しては返す波のリズムに、意識がゆっくりと海に引き込まれそうになる。
慌てて顔を振り、意識が現実に引き戻された。
これだけ考えて答えが出ないのであれば、今の私には何かが足りていないのだろうか。
それとも、何か見るべきものを間違えていたのだろうか。
そう悩んでいると、背後から声をかけられた。
「おーい、遥ちゃん。こんなところで何やってんの?」
振り向くと釣り竿を肩に担ぎ、大きめのバケツを手に持った凛ちゃんがそこに立っていた。
「あ、うん。ちょっと考え事をね。凛ちゃんは、何か大物が釣れたの?」
「んにゃ、アジやイワシ狙いだからねー。今日のご飯はアジフライにアジの刺し身よ!」
凛ちゃんが、大げさに鼻息荒くしてバケツの中を見せてくれた。
何匹ものアジが泳ぎ回り、大ぶりなイワシが二匹も元気そうにしていた。
「で、あのお酒について、何かわかったの?」
「うん、実はすごく高いお酒だってことはわかったんだけど……」
「あー、その様子じゃ、お祖父さんの思いはわかんなかったーって感じだね」
「そうなの……。すごく高いお酒だから守ったって人でもなさそうかなって」
「ふーん……それなら、お祖父さんのことを知ってる人に話を聞いた方がいいんじゃないかな」
そして、凛ちゃんが顎に指を置いた。波の音だけが、静かに耳の奥へ染み込んでいく。
「遥ちゃんが知りたいことって、お酒の事なんだっけ?」
思わず呼吸を忘れる。足元が崩れたような気がした。
私は何を見ようとしていたのか?
今までずっと、お祖父さんの事を知りたいはずなのに、お祖父さんよりも目の前にあるお酒のことを考えていたのではないのか。
「ま、それも大事なのかもしれないけどね」
「ううん。凛ちゃん、ありがとう! おかげで、少し前に進めた気がする!」
「ん。ならよし!」
にかっと笑う私の親友。いつも助けられてばかりだけど、たまには私も困っているときには助けてあげたい。
困っているところが想像できないので、いつになるかはわからないが。
「で、来年度のインターンについてはちゃんと決めたの?」
暖かさから一転。急に冬が来たように寒気がする。
別のことで頭がいっぱいで、完全に忘れていた。
「私は家の手伝いすればいいから気楽なもんだけど、遥ちゃんは蔵で酒造りの体験をしたいんでしょ? 早めに動かなきゃ」
心に氷で出来たナイフが突き刺さる。
「単位を落としても知らないよ」
躊躇うことなく刃を振り下ろされ、私はあっさり撃沈した。
「がくっ。凛ちゃん……正論だけで私を倒すとは、なかなかやるね……」
「何言ってんのよあんた」
倒れこんだら、ため息を吐いて半目で見られた。
「ま、あんたもお父さんが働いてる蔵でインターンするんだろうから申請はすぐ通るだろうけど、あそこは結構大手なんだから動くなら早くしなよ。じゃあね」
天地が逆転した視界で凛ちゃんが去るのを見届けた。
心地良い波の音と潮風に別れを告げ、家へと戻る中で考える。
インターンでは父の世話にならず、祖父のことを知っている人がいるかもしれない、祖父が杜氏をしていた蔵に行くのはどうだろうか。
そうすれば、今の自分が見落としている何かに触れられる気がした。
こうして検査結果の他に、父と相談する事がまた一つ増えてしまった。




